天喰
個人授業



 近頃、演習訓練ではあまりいい成績を残せていない天喰は担任のスナイプから居残りを告げられた。ヒーロー基礎学の担当の一人があの先生になってからしばらく、不調に陥ったのは天喰だけではなかったが一ヶ月も経って未だに引きずっているのは天喰だけだ。
 あの人を見ているとどうにも調子が出ない。
 折角うまく段取りができてると思ってもインカムから声が聞こえるなりテンポを崩して台無しになるし、じっと見られていると再現がうまくいかない。
 人のせいにするのは卑怯だが、担当がスナイプの時は絶好調だから間違ってはいないはずだ。
 そういうわけで、天喰は一人ポツンと演習場に佇んでいた。
 居残り、と言っても自主練では意味がない。
 あの人がいると不調になるという事実をしっかりと認識してくれている担任により『それを克服することを含めて訓練をするように』指示されている。つまり、苦手なあの人とマンツーマンでの居残りだ。
「ごめんね、遅れて」
 パッと姿を現した先生。何となくふわりと風が舞ったような気がする。その風が心の内を揺らしてきた気がする。
「え……と、じゃあ、今日は救助訓練、難易度Aのものをやります」
 天喰の動揺など気付きもせずいつものふにゃふにゃした話し方で課題を説明し始める。
「強盗により爆弾が設置されたビルで出火、ヴィランは捉えたが人質が取り残されておりその上パニック状態で個性が暴走してます。非常に危険な状態です」
 三年になってこうした複雑な設定が盛り込まれるのは少なくない。ありとあらゆる状況を想定して経験値を増やしていくことは必要だろう。
 ただ、先生が取り出した拘束具に天喰は困惑した。
「はい、これつけて」
「……先生が人質、やるんですか?」
 拘束具と一緒に両手を差し出されて思わず一歩後ずさる。
「人形とかロボットとか」
 いつもならクラスメイトが交代で人質役をやるか演習用に用意されたロボットを使うかするのに、という天喰の訴えは前髪の隙間でぱちぱちと瞬く二つの目に絡め取られて途切れる。
「だいじょうぶ、手加減する」
 ふにゃりと笑う。それが嫌味でも何でもなく本心からの優しさだとしても天喰のへっぽこなプライドが揺すぶられた。
「……パニック状態の人質が手加減、って……」
 もともと鋭い目を細めて少し下にある先生の目を睨み返す。
「ん、頑張って。救けて」
 笑みを浮かべたまま目の前からスッと消える。
 途端に通りの向こうの高いビルの窓ガラスがパンッと勢いよく割れ、そこから火の手が上がった。
 いつもの演習どおりなら身の危険ギリギリの範囲だ。本気を出さないとあの人が危うくなる。――救けられない。
「……はい」
 ぽそりと返事をすると同時に、ビルへと突撃した。


 数十分後。
「ん、ん、えっと、ね、まずまず」
 先生から告げられた評価はこれまでの成績を思えば高評価だ。
 チリチリと焦げた毛先と左顔の打撲痕、膝から下にかけての擦り傷。それらがまずまずという評価をマイナス値にまで下げているような気がして天喰は眉を歪めた。
「先生……いいから、治して。痛そうで話が頭に入らない」
 演習を終えて真っ先に講評をするのがいつもの流れだが、腫れて赤黒くなった顔半分をそのままにして話されてもちらちら視界に入れるたびに頭が真っ白になる。
「あのね、人質、ぼこぼこにしちゃだめ」
「わかった、わかった、ごめんなさい、治して」
「でも説得してる暇がない時は有りです。後々訴訟問題にならないようにだけ気をつけてください」
「先生……だから、痛そうだから」
 ボンッと小さな破裂音を聞いた瞬間、頭が真っ白になってアサリで思い切り打撃を加え、襟首を掴んで引きずりビルの外へと引っ張った。相手が相手だから手加減はできなかった。少しでもダメージが緩ければ個性で阻まれてしまう。だから二度三度と間髪置かず打ち付けたし、意識が飛ぶのをちゃんと確認した。
 我ながらそんな救け方があるかと今頃頭を抱えているところだ。
 言いたいことを言い切って満足してから先生はようやく傷を修復した。治る時は割とあっさり治る。瞬く間に綺麗な肌に戻って天喰はホッと息をついた。
「先生みたいな人質、そうはいないと思います」
 この訓練は無茶苦茶だ。無意味だ。ヴィランより強い人質なんておかしい。
「ん、でも、でもいるかも」
 言われて確かにと思ってしまったのか一度頷きかけてから、振り切るように反論をしてみせる。
「俺が人質になるかもしれない!」
「そしたらそのヴィランは命ないですね」
 はっきり言ってその想定はまずありえないし、プロのヒーローとしてそれでいいのかというツッコミも過るが、まず浮かぶのは『仮に人質になった場合の他のヒーローの怒りよう』だった。報道規制が敷かれる結果にしかならない気がする。
 先生は天喰の言っていることがよくわからなかったのか首をひねって明後日の方に視線を漂わせている。
 訓練のドタバタで髪は乱れてマスクは吹き飛び、あの吸い込まれそうな目が露わになっていて酷く落ち着かない。
「……お、俺って言うんですね」
 無理やり思考を逸らそうとして脈絡のない話が口から飛び出す。
 それもまた理解できなかったらしい。丸い目が瞬く。
「自分のこと、俺って……」
 授業の時は確か『私』と言っていたはずだがと言葉少なに示すとやっと思い至ったのか頷く。
「そうなの、あは、言ってた?」
「言ってます。喋り方も、なんか……なんか可愛いです」
 授業の時とは全然違う。今日は時折丁寧語が消えてしまっているし小さな子供みたいな話し方だ。素だとこんな風に話すのか。
「先生、可愛いです」
 無意識に手が動いて煤が張り付いた頬に手を伸ばしていた。親指で汚れをこする。皮膚があまりに柔らかくて込めた力がふにふにと逃げ少しも汚れが取れない。
「……ん、汚れてる?」
「はい」
 すりすりと頬を撫でてはじっと見下ろしていると大人しくされるがままにしている。
 ああ、無防備だなあ……と思った時には頭が傾いて、掠め取っていた。柔らかな感触が唇に触れる。
 至近距離に丸い目。
 やってしまったと思った時にはビリッと全身に痺れが走ったのだった。
create 2018/09/25