治崎
自制心



 朝と呼ぶにはだいぶ日が高い位置に来た頃、ようやく起きてきた飼い主がペタペタと音を立てながらキッチンへと歩いてくる。寝起きでなくてもぼーっとしてるところがある人物だが、今日はやけにふらふらしている気がする。
 気にかけつつもコーヒーフィルターにお湯を注いでいる最中だったこともあって手元に意識と視線を戻して、ゆっくりと落ちていく黒い雫を見つめていた。
 ぽすん、と軽い音がして背中に温もりと重さを受けた。
「……」
 ドリップポットを落としかけて、しかし平静を取り繕い台へ静かに置く。
「……どうした」
 彼からこんなふうに触れてくることはそうそうない。甘えてきていると素直には取れないが無視できないレベルで心音が跳ね上がった。
 しばらく待ってみても返事がない。背中にグリグリと額が押し付けられる。
「なんだ……?」
 体をひねって背後を伺う。
 背中の布を摘む手を掴み前へと引っ張り出す。
「んー」
 引き剥がされたのを嫌そうにしてすかさずまた前から治崎に貼り付いてはぐいぐいと頭を押し付けてくる様子に、いよいよ変だぞと身構えた。
 なんだろうか。怒らせたのか。いや、それはない。怒ってる時の彼とは違う。悩みでもあるのか。いや、そんなことを自分に見せてくれるような人ではない。
 可能性を浮かべては打ち消していく。
 全くわからない。
「熱、じゃないですか」
 不意に玄野の声がしたと思うなりひょこっと脇から顔をのぞかせて彼の額に手をあてがう。
「ああ、ほら、熱い」
 言われてみればくっついている部分が異様に熱い気もする。玄野の手で剥がされ上を向かされた彼の顔は紅潮していて呼吸も苦しげだ。
「……熱暴走?」
「んー、風邪じゃないですかね」
 個性の使いすぎで熱を出す例のアレかと過ったもののそんな兆候はなかった気がするがと首をかしげる横で、玄野が口を開けさせ喉を奥を見て言う。
 風邪。なるほど。
「薬とか買ってきやす。ベッドに寝かせてやってくださいな」
 言うが早いか足早に部屋を出ていく。
 相変わらずしがみつかれたままの治崎はふうと溜息を一つついてから抱き上げ、寝室へと連れいく。抵抗がないどころか首にぎゅうと抱きついてきた。こんな反応はされたことがない。
「ほら、寝ろ」
 ベッドの上でぽんぽんと叩いて離れるように促すとイヤイヤと首を振った。
 なんだ、こんな可愛い反応をする奴だったか。
 熱を出すとこうなるのか。
 玄野に抱きかかえられることはあれど治崎にこうして自分からくっついてくるなんて初めてのことだ。
 だが、これは良くない。非常にまずい。頬を染め息を荒げた状態でぴったりと体を貼り付けてくるのは良くない。相手が弱ってるとか風邪がどうとか理屈が吹っ飛びそうになる。ときめくより……ムラムラする。
 じっとりと汗ばんでいる首筋を舐めあげたい。
「……な、大人しく寝ろ」
 自制心というものがそれなりに備わっていたのだなと内心で自嘲しつつ、絞り出すような声で宥め、細い手首を掴み、ぐいっとベッドへと押した。容易く体が傾き横たわる。
「ちさき……」
 譫言のような声が名前を呼ぶ。
 理性が揺さぶられる。
 両方の手首を顔の横で押さえつけているような格好のまま離すことも被さることも出来ずに彼の赤ら顔を見下ろした。酷く倒錯的だ。
「おれのこと、きらいなの?」
 うるっと目の中の水分が増していき下まぶたに溜まる。
 熱というはこんなふうにしてしまうものなのか。これだからウイルスというものは恐ろしい。
「……いつもこんなふうになるのか? これを……他の奴も見てるのか?」
 共に暮らす人にこんなふうに甘えて縋って泣いて見せるのだろうか。そう考えて自分の発想に苛立ち、抱いている衝動を後押ししてくる。嫉妬は割と免罪符になりうる。
「閉じ込めたいな……」
 そうすればいくらでも抱きしめていてやるのに。
 熱にうかされたように思考がふわふわする。なけなしの理性が遠のく。
 押さえつけている手の指を彼の指に潜らせ絡めていく。隔てている布一枚が煩わしい。手袋越しに細い指や小さな爪の感触を味わいながら頭を垂れていく。
 ふうふうと苦しそうに吐く息が触れる。
 不安定にゆらゆら揺れる瞳が至近距離で治崎を映している。
 小さく名前を呼ぶ口を塞ごうとあと少しの距離を詰めようとした、その瞬間。
 ゴッ、と鈍い音が部屋の入り口で響いた。
「廻……相手は病人だよ?」
 開きっぱなしにしていた扉に叩きつけたであろうペットボトルを片手に、冷ややかな目を向ける玄野。
 うっと固まる。
 自制心と、存在していたらしい罪悪感らしきもの。それらが一気に押し寄せて治崎はらしくもなく狼狽える。
 緩慢な動作で体を起こし多少の名残惜しさを感じながら絡めていた手を剥がしていく。
「……や」
 するりと離れかけた手を、きゅっと握り返された。
 全力で縋るように目をうるうるさせて見上げてくるせいで最早離れたらいいのかくっつけばいいのか、頭がぐるぐるしてきて機能を失う。
 中途半端な体勢で身動きが取れなくなった治崎の手を玄野がぺりっと剥がした。代わりにと自分の手を絡めて、見たこともない笑みを浮かべる。
「汗拭くんでタオルと着替え持ってきてください」
 言外に部屋を出て行けと含んだその言葉に治崎は無言で従った。薄暗い部屋から廊下に出るなり、まるで違う空気に思えて深く吸い込んだ。
 危なかった。
 玄野が止めなければ本当に無体を働くところだった。
 短い髪をわしわしと掻き混ぜ纏わり付いている欲を振り払う。吸い込んだ息をフッと吐き出し、タオルと着替えを用意すべく階段を降りていくのだった。
create 2018/09/25