死柄木
May you



年齢制限のある作品です。
1日1アンケの結果により『風邪をひいて夢主に看病される死柄木』のお話を書きました。
本編の設定を使用していますが切り離してお読みください。






 多くの人が行き交う駅前の通り。幅の広い歩道の十数メートルほど先に立つ人物に気付いた。黒いパーカーのフードを目深にかぶってふらふらと歩いてくる。
 癖のある髪、目の周りの隈と皺、傷跡のある口元。
 死柄木だ。
 バッと周囲を見渡す。他のメンツも居合わせているのでは、この場で事を起こすつもりなのではと警戒したのだ。こんな人の多いところで騒ぎを起こされれば被害を抑えるのは難しくなる。死柄木に警戒を向けたまま、素早く周囲を確かめていく。車や人がせわしなく動き回るせいで正確に把握するのは無理だが、見える範囲に仲間はいないらしい。
 単独行動か。たまたま居合わせただけか。
 様子を探り探り、西岐も死柄木の方へ歩を進める。距離が五メートルほどまでになって歩調を早め、どんな行動に出られても対応できるように気を張り詰めながら、最後は大きく踏み込んで距離を詰め両手で死柄木の手首を掴んだ。

「…………あれ?」

 無反応というのはこういう事だ、とばかりの手応えのなさ。前に進めていた足は止まったが、西岐に手首を掴まれているというのに抵抗もなければ、筋肉の反射もない。
 掴んでいる手首は以前触れた時に感じた恐ろしいほどの冷たさはなく、むしろ妙に熱い。

「……しがらき……だいじょうぶ?」

 思わずそう問いかけてしまうほどには死柄木の様子が可笑しい。
 ぼんやりした目が目の前にいるはずの西岐を透かして少し先の地面を見つめているし、立ち止まっているのに身体がフラフラと左右に揺れている。少々荒い呼吸音が聞こえてくるし、顔が赤い。

「……ねぇ、しがらき」

 西岐の声に漸く反応を示す。ぱちぱちと目蓋が瞬き焦点が西岐に合わせられた。

「西岐……、……西岐? 西岐がいる」
「うん、いるよ」

 酷く掠れた声が西岐の名を繰り返し呟くのを聞いて、西岐はいよいよ困ったような顔になって死柄木を見上げた。これはどうみても風邪。しかも高熱。西岐を見ているようで見ていない目と重心の定まっていない身体。今ならば容易くヴィラン連合のトップを捕まえられるのではなかろうか。しかし、こうも憔悴した姿を見せられて、西岐の胸には放っておけないような気持ちが湧いていた。
 どうしてこんなに高熱なのにフラフラ出歩いているのか。本当に仲間は近くにいないのだろうか。
 もう一度きょろきょろと周囲を見渡す。

「……西岐」

 死柄木が背中を丸め、頭を垂れ下げて、すり、と頬を寄せる。フードがずれて髪と乾いた肌が頬に擦れる。肌と肌が触れたことで、立っているのも辛いであろう程の熱さが伝わってきた。よく熱を出す体質だからどれほど辛い状況なのか分かる。垂れ下がった頭がどんどんと下に落ちてきてついにポフッと肩に乗っかった。
 このまま全身で寄り掛かられたら支えるのは難しくなる。そうなる前に移動しようか。しかしどこに。そんな逡巡をしている間に、気付けば黒いモヤに包まれていた。

 周囲が真っ暗になってすぐモヤが晴れ、視界が開けると周囲の景色が変わる。
 そこは古いマンションらしき一室。ゴミ袋や脱ぎ捨てた衣類や様々なものが雑然と置かれて、お世辞にも清潔とは言えず、沢山の物のせいで部屋が随分狭くなってしまっている。いくつかあるソファーや椅子もまた半分以上が物置になってしまっている。
 この場所へ西岐を連れてきた黒いモヤが人型の姿を現した。ヴィラン連合のワープゲート、黒霧と呼ばれていた男だ。西岐を警戒してなのか未だにモヤを周囲に漂わせている。
 これは不味い状況なのでは、と焦りが走る。
 死柄木の動きを封じるために手首を掴んでいるせいで西岐自身の動きもまた制限されている。
 ここはとにかく拘束を解いて逃げてしまおうか、そう思って緩んだ西岐の手を、今度は死柄木の手のひらが包む。全ての指で触れてしまわないように三本の指だけで掴み、それでも逃げられないくらいの力が込められて皮膚に食い込んだ。

「……駄目だ、逃げるな。……ここにいろ」

 西岐の肩に顎を乗せたままゴツッと頭がぶつかる。ぐいぐいと押すように擦り寄ってこられて、西岐の視線があちこちに泳ぐ。逃げようという意欲が削がれてしまった。
 それを見越してか黒霧から声がかかる。

「少々、彼を看ていてもらえませんか、私は薬など必要なものを調達してきますので」

 え、と聞き返す間もなくモヤが消え去り部屋に取り残された。どうして敵である自分が看なくてはならないのかという尤もな疑問をぶつける相手はいない。
 動揺して佇んでいる間も預けられている体重が次第に増えてきた。
 これ以上寄り掛かられては本当に死柄木ごと床に倒れ込んで身動きが取れなくなってしまう。

「ま、待って、待って。しがらき、もう少しだけしっかりしてて」

 どこか寝かせられる場所、と視線を巡らせて透かした壁の向こうにベッドを見つける。迷うことなく瞬間移動でベッドの前に移動すると身体を傾けて重心をずらし、死柄木の身体をベッドに降ろした。力なく転がった癖に手だけはしっかりと西岐を掴んで離さない。狂気に満ちた両目が目蓋の裏に隠れ、苦しそうに息を吐いているのを見て、もう完全に逃げる気が失せていた。
 弱っている人間を放って逃げるなんてできない。それが例え敵だったとしても。
 ここでの正解は恐らく警察に連絡した上で死柄木を病院に連れて行くことなのだろうが、預けて出て行った黒霧のことを考えるとその選択肢も消える。こんな義理立てが意味のあるものかは分からないが、性分だ。

「……ここにいるから、手、離して」

 聞こえているのか分からなかったがそっと声をかけてみると、指から力が抜けて西岐の手が解放される。強く握られていたために痺れている手を少し解してから、ベッド周りに散らばっている衣類や紙袋や何やらを拾っては腕に抱え、それを持って隣の部屋に戻った。
 とにかく、こうも乱雑に物が置かれ掃除が行き届いていないのは身体によくない。治るものも治らなくなるというもの。よし、と気合いを入れて袖を捲った。

 それからどれくらいの時間が経っただろうか。
 まず初めに取り掛かったのは、ゴミ集め。どうみてもゴミであろう物を拾っては袋に押し込み、部屋のあちこちに山積みになっていたゴミ袋と一緒にマンションの集積所へと運んだ。運よく翌日が収集日なのである程度は大目に見てもらえるだろう。
 集積所と部屋を数回往復して積まれていたゴミ袋がすべて無くなってからは、必要そうなものを一旦ソファーに置いて部屋中の掃除に取り掛かった。本当は掃除機があれば早いのだけどそういったものが見つからず、仕方なく自分のハンドタオルを雑巾にしてチリや埃を至る所からこそぎ落とした。
 小物やら電子機器やらの整理はよく分からないので空いている棚に適当に置いて、放り投げられていた衣服を畳んでいく。これも本当は洗濯してしまいたかったのだが洗濯機がないから仕方がない。
 一体どういう生活をしているのかと疑問に思いながら最後のシャツを畳み終えた時、背後に不思議な気配がして、振り返った先に黒いモヤが広がっていた。

「おかえりなさい」
「……これは…………凄いですね」

 出迎えの言葉をかけた西岐を無視して黒霧は部屋を見渡す。顔からは感情が読み取れないが、すっかり片付いていることに驚いている様子だ。

「あの、ね、くろぎり、さん」
「なんでしょう」

 ヴィラン連合のメンバーに話しかけている現状に無視できない異物感を心が感じているが、気付かないふりをして改めて声をかけると、妙に丁寧に聞き返されて次の言葉が喉でつっかえた。

「あ……えっと」
「はい」
「……これ、洗濯したいです」

 畳んで一纏めに積んだ服を指さして暗に洗濯機がないことを訴える。
 すると、そういうことかと頷きが返ってきた。

「別の部屋に洗濯機があるのです。私が洗濯してきましょう。代わりにこちらを」

 広さからしてヴィラン連合の全員がここに住んでいるとは思えなかったが、いくつかの部屋に分かれているのだろう。黒霧の言葉には多少そういったニュアンスが含まれていた。それと、ヴィランという立場上、住まいを散らしているのかもしれない。
 黒霧は手にぶら下げたビニール袋を西岐に渡して、服の山をモヤで包み始める。随分便利な個性だと改めて思う。
 そうして服と共に黒霧が再度姿を消してから、西岐は渡された袋をあけた。中に入っていたのは風邪薬とスポーツドリンクとゼリー飲料。アイスノンなど冷やす類のものはなく、ああそういえばそもそも冷蔵庫もなかったなと思い至る。アイスノンを買ったところで凍らせることが出来ないのだ。
 これでは余り出来ることもないしいる意味があるのだろうかとも思うが、ひとまず薬は飲ませたほうがいいだろうと寝室を覗く。
 死柄木は寒いのか毛布に包まって丸くなって寝ている。
 ベッドの端に腰かけて、薬の箱に書かれている用法用量を読みつつ開封していく。瓶に入った錠剤タイプで一回三錠とのこと。

「しがらき、薬」

 顔が見えないせいでどのくらいの眠りか分からなかったが西岐が声をかけるとピクッと毛布の塊が動いた。どうやら起きてはいるようだ。しかし返答もなければ毛布から顔を出すこともない。

「ね、薬、飲んで?」

 起きていると分かれば毛布の上からゆさゆさと揺する。
 それでも反応がないので毛布を引っ張ろうとするが内側で引っ掴んでいるのか剥がれない。

「……え、なに、……ね、しがらき?」

 病人相手とはいえ力勝負で西岐が勝てるはずもなく、動かない毛布の塊をぽんぽんと叩いてしつこく声をかける。絶対起きているのに完全に無視。ということは、これはあれだ。薬が飲みたくなくて拒絶しているわけだ。多分。
 なんと大きな子供なのだ。
 なんとめんどくさい。
 黒霧が頼みたかったのはこちらだったかとようやく得心がいく。部屋を片付けた時に粉タイプの風邪薬を見つけていて可笑しいなとは思っていたのだ。薬を飲みたがらない死柄木に相当苦労したのだろう。

「錠剤だよ、飲みやすいから、飲んでほしいな」

 本当に小さな子供へ言い聞かせるように優しく柔らかく言葉を投げかける。

「熱……つらいでしょ? ねえ、俺、しがらきが熱で寝込んでるなんて……嫌だな」

 苦手な"口から出まかせ"。それらしいことを適当に言って宥めていながら、だんだん本音との境目が分からなくなってくる。どういう感情論理にせよ確かに死柄木が熱で寝込んでいることには動揺するし落ち着かなかったから。
 頭があるであろう場所に手のひらを当てて、ゆっくり、ゆっくりと撫でる。
 もぞっと毛布が動いて捲れた。
 熱があるのに頭から毛布を被っていたものだから顔がいっそう赤くなってしまっている。
 西岐は躊躇いなく手を伸ばしていた。死柄木の顔の側面に手のひらを当てて熱が上がっていないかを確かめる。あくまで手のひらの感覚だけだから正確ではないけれど赤くなっているのは毛布のせいだけではないかもしれない。
 手のひらを当てられて大人しく目を細めていた死柄木が、ひび割れたような声を出す。

「……口移しなら飲んでもいい」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 緩慢な動作で瞳が横へと流れていき、宙を漂って言葉の意味を探す。
 口移し。薬を口に含んで飲ませろということか。
 そこに思い至れば西岐はすぐさまペットボトルの蓋を外してスポーツドリンクと錠剤を一緒に口に含んだ。口移しで飲むというのなら飲んでもらうだけの話。何も躊躇う要素はない。
 口に液体を含んだまま動くなんてことは滅多にしないから、零れてしまわないようにキュッと唇を閉じて顔を下に向ける。
 熱に浮かされた死柄木の目が動揺してか揺れている。
 何か言いかけた口を塞ぎ、液体と薬をその口の中へと注ぎ込んだ。
 これで合っているのだろうかと一抹の不安が過るが嚥下する喉の動きを感じてホッとしながら顔を上げようとした、その西岐の頭を静かに持ち上がった死柄木の手が押さえつけた。驚いている暇もなくぬるっとしたモノが口の中に入ってくる。我が物顔で侵入してきたそれが口の中を縦横無尽に暴れまわり、西岐の身体の力を奪っていく。

「……ん、ン、……ふッ」

 にゅるにゅると舌がなぞられ導かれるまま突き出したそれを吸われると、ぞわぞわと肌が粟立った。口を塞がれて逃げ場のなくなった空気が胸をどんどんと叩く。あまりの苦しさに逃れようとする西岐だが、後頭部と腰を死柄木の手が押さえて逃さない。
 枕についた手から力がふにゃふにゃと抜けてしなだれかかれば、死柄木の舌が口の中で本格的に暴れまわる。西岐が身を震わせる場所を見つけては執拗にそこばかりを舐め、溢れてくる唾液をじゅるじゅる啜って喉を鳴らす。西岐ごと飲み干すつもりなのかと言わんばかりに蹂躙され、朦朧とし始めた頃、頭を押さえつけていた手が緩み、やっと塞いでいた口が離れた。閉じ方を忘れた唇からでろっと垂れる唾液を舌先が舐めとっていく。
 頭を浮かせているのも辛くなって枕に降ろした。
 すぐ隣に死柄木の顔があって細めた目で西岐を見ている。するすると手のひらが滑って頬を包む。何度か頬に触れたことのある手は記憶の中ではゾッとするほど冷たかったのに、今は西岐の火照った頬より熱く感じる。

「……ハァ、薬……飲んだね」

 少しごわごわした髪に指をくぐらせて頭を撫でる。指で梳いては耳の向こうへと滑らせると、うっとりした目になって一層西岐の腰を引き寄せて毛布の中へと引きずり込んだ。傷だらけの自分の唇をべろっと舐めるのが見えたと思うなり、その口を大きく開いて西岐の喉元に食らいついてきた。

「……ッ?」

 突然肌に歯を立てられて反射的にビクッと跳ね上がる身体を押さえつけられ、ぴったりと密着した下腹部に何かゴリッとした硬いものが触れた。
 歯を立てながら舌を這わせ、吸い付いては肌の上を滑っていく唇に西岐の声が上ずる。

「し……しがら……」
「積極的だなあ、西岐……」
「……せっきょく……? え、ちょ……しが、らき」

 首と肩の間の窪みをぐりぐりと舌でなぶられるとじっとしていられないような感覚が襲ってきて身を捩るものの、抵抗らしい抵抗も出来ず、死柄木の両手が後ろに回って臀部の膨らみを揉んでは割れ目をなぞり始めたあたりで、やっと、ああこれは不味いのではなかろうかという焦りが浮かんだ。とはいえ死柄木の両腕にすっぽり閉じ込められている状態。

「あの、は、なして」
「いやだ、セックスしたい」

 その間もぐいぐい押し付けられている硬いものは、今触れている死柄木の身体の中で一番熱いような気がする。
 そして死柄木が物凄く元気な気がする。
 服越しに指が臀部の奥の窄まりをなぞろうと動いた、その時。

 冷たい塊が頭上から降ってきた。
 それはどうやらロックアイス。
 ざらざらと降り注いできた大量の氷に驚いて飛び起きれば、そこには氷が入っていたであろう袋とそれを逆さまにして持っている荼毘の姿があった。

「つッ、めてぇえなっ」
「ちょうどいいから茹で上がってる頭冷やせ」

 同じく飛び起きた死柄木がこれまでの弱りっぷりを覆す勢いで荼毘に食って掛かる。多少は熱でふらついているようだが言葉と睨みつける目は強い。対する荼毘は相変わらずの冷ややかな目で汚物を見るかのように見下ろしている。

「こちとら病人なんだ、労われよ」
「労わってるから氷買ってきたんだろうが」
「………………あ、氷」

 いきなりのことに目を白黒させて二人のやり取りを見ていた西岐は氷という単語でハッと我に返り、ベッドに散らばった氷を拾い始める。折角の熱を冷やせるものだ、勿体ない。それにこのままにしておくと寝具が濡れてしまう。
 本人は至極真剣に。手のひらから溢れるほどまで拾って何か入れるものをと探して、荼毘の手の袋に視線が辿り着く。

「お前の危機感はザルか?」
「……え? えっと、…………ごめんなさい」

 悠長なことをしている西岐に苛立ったのだろう、随分と不機嫌な声が降ってくる。思わず謝ってしまった西岐に荼毘はさらに眉間の皺を寄せた。
 差し出された袋に氷を入れ、そっとベッドから立ち上がる。
 仲間も帰ってきて労わる気があるにはあるようだし、死柄木も結構大丈夫そうに見える。薬も飲ませた。もうこの奇妙な状況から抜け出してもいいのではないか。
 弱っている死柄木にほだされて看ることにしたが、荼毘も居合わせるとなると話は別だ。正直、怖い。気力を取り戻してきている死柄木も怖い。
 ゆっくりと、静かに二人から距離をとる。

「あ、の……なんか、だいじょうぶそう、かなって。だから、そろそろ……」

 帰ろうと思う。
 言おうとした言葉は最後まで音にならなかった。

「――は? 逃がすかよ」

 右手を死柄木に掴まれギリッと軋む。ベッドから足を踏み出し覗き込んでくる眼にはすっかり狂気が戻っている。ニタリと笑うその顔はもう見知っているものだ。
 そして左手は荼毘に掴まれていた。無言で向けられている殺気のようなものにゾアッと鳥肌が立つ。

「いけませんね、途中で投げ出しては。死柄木弔が治るまで看てくださると約束されたではないですか」

 いつの間にか戻ってきた黒霧が洗濯を終えた衣服を抱えて背後に立っている。黒いモヤが小さな渦を巻いて西岐の足元に絡みつき片足が黒霧の手元に持っていかれた。これではどう頑張っても逃げられない。
 黒霧の言う約束などした覚えはないのだが、四面楚歌の現状、反論は無意味だろう。

「…………はい」

 渋々、頷く。
 諦めを滲ませて息を吐いた。

「います。ただし風邪が治るまで、です。治ったら手足もいでも逃げます」
「良いでしょう」
「死柄木、一生熱出しとけ」
「ふざけんな」

 西岐の苦渋の返答を聞いて痛いほど食い込んでいた二つの手が離れ、片足があるべき場所に戻される。風邪が治ったとて簡単に返してもらえるか怪しいのだが。西岐は先のことを考えるのをやめた。
 それよりも、と、先程から空腹を感じ始めている自分の腹を撫でさする。昼時にここへ連れてこられて時計の短針がすでに右下に傾いている。部屋があの有様では死柄木も他の二人もろくなものを食べていないだろう。ゼリー飲料も風邪の時には悪くないかもしれないが、温かいものを食べたほうがいい気がする。

「ごはん、作りますか?」

 しがらきと荼毘の間で交わされていた小競り合いのようなやり取りがピタッと止まった。小さな声でぼそっと『ごはん』と復唱している。

「くろぎり……さん。あの……ごはんの材料を」
「ええ、買ってきましょう。必要なものをリストにしてもらえますか」
「あ、……うん、えっと」

 作りたいレシピを頭に思い描いて指折り材料を挙げていく。そうしながらリビングの方へと向かう西岐と黒霧につられてか死柄木と荼毘もまた後ろをついてくる。死柄木は風邪で熱があるのだからベッドで寝ているべきなのだが気になるらしい。折りたたんでいく指をじっと見ている。
 そしてリビングに出て、その片付いている様を見ておおっと低く漏らした。

「決めた、西岐を嫁にする」
「……決めんな」

 恍惚の表情でどんどん機嫌がよくなっていく死柄木と、反比例に不機嫌を纏っていく荼毘。
 ヴィラン達の機微は何かと難しい。
 死柄木の風邪が治るまで、西岐の身は保つだろうか。
 買い物メモを片手に三度モヤに包まれていく黒霧を見送ってから、下準備でもしておこうと設備の整っていないキッチンに立つ西岐の後ろをぞろぞろついてくる二人に、知らず知らずため息が漏れる。

「……あのね、しがらきは寝てないと」

 そう言うと死柄木は隣でカウンターのスツールに腰かけようとしている荼毘をちらっと横目で見た。

「こいつは?」
「……だびは熱ないでしょ」

 至極当たり前のことを言っただけなのに死柄木は気に入らなさそうに口をへの字に曲げる。首をぼりぼりと掻きむしりながらしばらく思案気にしていたが、いいことを思いついたのか口元がニタァと笑みの形をとる。

「西岐がキスしてくれたら寝るよ」

 今度は西岐が口をキュゥと引き結ぶ番だった。
 薬を飲ませるという大義名分のない、はっきり『キス』と言い切った要求に思わず目を瞠った。
 どうしよう、と悩むさまが表情にありありと浮かんだ。悩むこと自体が可笑しいのだが西岐は大概思考が人とずれている。加えて性の倫理や貞操に関してほとんど無知といっていい。キスが愛情表現だというふわっとした概念しか持ち合わせていなかったせいで、少々困りつつも曖昧に頷く。どうせ一度くっつけてしまっている口だ、まあいいか、という考えだった。
 カウンターの端に移動すると死柄木も同じように横にずれていき、澄ました顔で待ち受けている。
 顎を上げ、首を反らし、それでも埋められない距離を死柄木の頭が垂れ下がって補ってくれる。至近距離で見下ろしてくるあの眼はやはり少し恐ろしい。カサついた唇に自分のを押し当ててすぐに離れる。数秒にも満たない短い接触だったが望みが叶えられたことが死柄木を満足させたらしい。ペロッと自分の唇を舐めて嬉しげに緩めている。

「なんかさ、セックスしないと死ぬとか言えばさせてくれそうだな、西岐って」
「――やめろ、笑えねぇ」

 にやにや笑いながら寝室に戻っていく死柄木に向かって、苛立ちをそのままぶつけるように少々声を張り上げた荼毘に、西岐は表情を強張らせた。黒霧が買い物に行って死柄木が寝室で休むことになれば必然的に荼毘と一対一になるわけで。これが一番精神にくる。
 音を立てないようにキッチンに戻って、かろうじて置かれていた鍋や少ない食器の類を出していく。包丁やらその他、料理に必要な道具や足りない食器などは食材と一緒に黒霧に頼んであるが、改めて何がどれだけあるのか確かめたかったのだ。
 しかしマグカップやグラスの類だけが妙に多い。そういえばどれだけの人数が一度に居合わせるのだろうかという疑問が湧く。以前バーに連れ去られた時に見たあのメンツが全員揃うとなると、黒霧に頼んだ分では足りない。

「あいつらはそうそう来ねえよ」

 西岐の思考を呼んだようにカウンターから声が飛んできた。

「あ、うん、……そっか」

 頬杖をついて酷く詰まらなさそうにこちらを見ている。それならソファーの方にでも行って好きなことをしていればいいのだが、じっとひたすら西岐の一挙一動を眺めていた。もしかしたら見張っているのかもしれない。

「どれが、誰のですか」
「黒いのが死柄木、その白いのが俺、ステンレスのが黒霧」

 黒いのと白いのとステンレスのカップを残して他は棚に戻す。そのうちの一つ、猫の柄のものを見つけて手が止まった。それだけが妙に可愛らしいデザインで明らかに女性ものだ。

「気に入ったならそれ使え、トガのだ」
「うん」

 猫の柄のカップも一緒に残し、使えそうな皿なども出した。道具が足りなくてしておけることはもうない。手持無沙汰になるのを恐れてキョロキョロと見渡したカウンターの隅にコーヒーメーカーと豆を見つけたので、コーヒーを淹れることにした。水を入れて豆をセットしてスイッチを入れるだけの作業。ガリガリ、シュンシュン、ゴポゴポと音を立てる機械を眺める。
 だめだ、もうこの空気に耐えられないと思ったその瞬間、静かだったその空間に賑やかしい声が響いた。

「西岐くん! うわあ、ほんとに西岐くんだ! ごはん! 私も食べたい!」
「よーぉ、来てやったゼ感謝しろ!! すまん俺も混ぜろください!!!」
「すみません……捕まってしまいました」
「…………黒霧、よりにもよって……」
「うるっせえ……」

 ヴィラン連合でも特にテンションの高い二人、渡我とトゥワイスの登場によって急に騒がしくなり、不思議なことに何故か部屋がいくらか狭くなったように感じられる。
 カウンターと隣の寝室から苦々しげな声が響くがそれも掻き消された。
 二人の勢いは西岐一人に向かって押し寄せてくる。

「あっ! 私のねこちゃんカップ、西岐くん使っていいよ! 私は弔くんの使う!」
「俺のは青いストライプな!! 赤だけどよ!!」
「お鍋いいよねぇ、しらたき買っちゃった、いいよねぇ」
「ばっか鍋にはマロニーだろ!!!」
「あ……あああ……えっと、うん、うん、……くろぎりさぁん……」

 特にテンションの高い二人は特に会話が成り立たない二人でもあるらしい。勢いもさることながら会話の内容が脈絡なく変わっていく上に返事を聞く様子がない。勝手に会話が進んでいくことに恐怖すら覚える。
 助けを求めて黒霧に目を向けるが、彼は寝室から顔を出した死柄木の怒りの受け皿になっていてフォローは無理そうだ。
 荼毘はもううんざりした顔で部屋の端にあるソファーに移動してしまった。

 ヴィラン連合のなんと面倒くさいこと。
 そもそもは風邪の看病だったはず。
 しかし、もうそれだけをしていればいいという状況でもなくなっている気がする。
 大体にして風邪をひいている張本人がこう何度もフラフラベッドを離れていては治らないのではないだろうか。治るまでここにいろと言われているのに、本人には治す気がないようにさえ見える。
 西岐はここにきてついに、漸く、自分は一体何をしているのかと頭を抱えた。

 結局、死柄木は熱が下がりかけてはぶり返し、下がりそうになってはぶり返しというのを何度も繰り返して、完全に回復するまでに相当の日数を要した。そして、その間散々口移しやらキスやらを迫られた西岐が見事に風邪を移されて、ヴィラン連合のメンツにあれやこれやと看病される羽目になるのだが、それはまた別の話。
create 2018/01/25
update 2018/01/25