▼
その日の帰り道、自宅へと向かう途中のタクシーの中で名前は携帯の画面から顔を上げた。闇に紛れて耳に入ってくる歌声があったからだ。それは名前の脳内を刺激するに足る力を持っていた。名前は咄嗟に前のめりになって「あの」とタクシーの運転手に話しかける。
「はい」
「近くで今ライブでもやってるんですかね」
「さあ……。ああでも野外ステージならありますけど。3000人くらい入ったかな…………?」
「へ〜」
雨が降っている中でよくやるものだと名前は感心した。ぶるる、と手の中の携帯が震えて画面を見ると「亥清悠」な名前が表示されていて名前は嫌な予感がした。恐る恐るボタンを押すと、耳に当てるまでもなく「ちょっと名前〜!」と馬鹿でかい声が車内に響き渡って慌てて名前は「はいはい、名前ですよ。亥清悠君」と応答する。運転手のバックミラー越しの生暖かい視線がいたたまれなかった名前は、それ以上の勘違いを防ぐために「弟、弟ですから」と弁解したがどれほど効果があったのか。
「は?弟?いつから俺が名前なんかの弟なわけ?ふざけないで」
「いやぁー!まったくもー寂しがりやで困っちゃうなー!」
「ちょ」
「で、どうしたのさ亥清君」
「………………、どうしたって?」
「え……え?」
「何、用がなくちゃ電話しちゃダメなの?」
「いや、そんなことはないけど……まじ?」
わーお、と思わず変な返しをしてしまったことに名前が頭を抱えたのと、目的地であるマンションに到着したのはほぼ同時だった。携帯を肩と耳の間に挟み財布を取り出して、会社の金で代金を支払った名前は車を降りて傘をさす。自宅のある階までのエレベーターを待ちながら、名前は亥清悠のほぼ一方的な会話に耳を傾けることにした。現在はアメリカで過ごしているとかなんとかかんとか聞いていたため、メールならともかく電話は完全に国際電話。長話はお財布的によろしくないので早く切りたい名前であった。
部屋についた名前は冷蔵庫の中にあったお茶の入った容器を手に取った。適当な弁当をレンジに突っ込んでからテレビをつける。深夜帯の音楽番組は今月のチャートランキングを発表していた。上位にはもちろんTRIGGERの名前もあり、一位がRe:valeなのは流石というべきだろう。TRIGGERの新曲のイントロが流れ出してきたことで亥清悠の声色は露骨に低くなった。嫌いすぎて最早ファンよりTRIGGERに目敏いのではないだろうか。名前が呆れつつもそんなことを考えているとはつゆ知らず、亥清悠は「番組変えろ!」と煩かった。名前はそれを無視した。
「まったく、寂しがってると思って連絡してあげたのに、全然元気じゃん」
「寂しい?まさか」
からからと喉の奥で笑った名前に悔しかったのか亥清悠は携帯の向こうで唸った。やりとりは始終軽快なもので、ある意味で二人は親しい友人関係であった。と、急に遠くでバタバタと騒がしい音が聞こえて、亥清悠の焦った声が聞こえる。
「…………あっちゃんは来ちゃダメ!」
「あっちゃん?」
「こっちの話」
「あ、そう」
なんだ、ガールフレンドも一緒かと名前は思ったが、思春期の少年にそれを尋ねるのもどうかと判断して聞かなかったふりをする。しかしガールフレンドがいたら女のところに電話なんかかけてくるんじゃないとそこだけ叱りたくなった名前である。名前はお茶を一息でコップ一杯分流し込んで、ぷはー、と息を吐き出した。壁に飾られたカレンダーをふと見たところ、「ライブ!!」と書かれたマークが目につく。
「そうだ、今度日本に来るときは教えてよ。ライブのチケット取っておくから」
「何の?」
「TRIGGER〜」
「今すぐ名前殺したいんだけど」
「嘘だよ。私の」
「名前の歌はもう聞き飽きた」
「相変わらず厳しいなぁおい…………」
悲しい。名前が泣き言を漏らしたところで「あ、だから入ってこないでって!……じゃあね名前!」とこれまた一方的に電話をぶつ切りされた。嵐のように去っていった亥清悠に名前が一体何だったのか、と悩む中、ぴー、と軽い音がなった。レンジが終わった音だった。手を合わせてから弁当の蓋を開ける。忙しいとなかなか自炊もできないので、最近は体力に加え栄養管理もできていない。客観的に見て健康的ではない生活を送っていることが親に知れたら何と言われるだろうか。基本放任主義なので何も言わないだろうなぁ。と名前が結論を出したところで今度はメールを受信した時の振動音がした。
「…………?」
名前は箸を置いて携帯を手に取った。届いたメールを開いてみると「月雲了」の文字が目に入って、一瞬名前の手はスクロールするのを躊躇した。下にスライドしていくとスキャンダルは問題ない程度に修正した旨と、次回の仕事に関していくつか記載されていた。把握したという返事のメールを打ちながら、ふと名前は月雲了に対して自分は何もしていないことを思い出す。あれ…………?自分ってたしか、月雲さんの手下では?細々したおつかいはあれどまだ大したことはしていない。月雲了の言う「目的」とやらの日がいつになるのか、関心はないが少し気になったのだ。しかし自分のことは一切話さない月雲了という男のこと、聞いたところで反応はわかりきっていた。少し迷って名前は文末に「何かお困りならお手伝いしますけど」と付け加えた。送信する。
「これでよし」
いただきます。残りのお弁当を平らげるべく、名前は米をかっこんだ。
四回目の朝、その光に焼き尽くされた