名前はもともと平凡な学生だった。月雲了に拾われて、歌うための最高の舞台をくれるというから、こうして自ら下っ端に身をやつしている。

まあ与えられたものの大きさの割には、何もしていないがと、名前は独りごちる。

「脅されているわけじゃない。君のように確固たる……かは微妙だけど信念があるわけでもない。何が言いたいかというとさ、今からでも遅くないから、こんなのやめますって放り出したほうがいいと思うんだ。どうせあっちも責任なんか放棄してんだから、怒られないさ」
「忠告?それとも、同情か」
「両方。私は月雲さんの下っ端BとCとも知り合いだけど、狗丸君は、あの二人ともちょっとばかり違うようだから」
「それは…」

事務所の革張りの高級そうなソファに深く腰掛けて、買ってきたファストフード店のドリンクをズコー、と吸い込みながら、名前は結局どちらともつかない曖昧な言葉を目の前の男に言った。
契約書にサインしたとは言っても、ほぼ非公式に近いそれを律儀に遵守する必要は全くない。そもそも雇用と言えるのかすら怪しいのだから、とっととあんな胡散臭い月雲了との縁は切るべきだ、とようは名前はそう言いたかったのだが、伝わったのか否か、狗丸トウマはふん、と鼻を鳴らしてソファに踏ん反り返った。

「辛いのは好きだからだ。嫌いなんじゃなくてただ辛くて目を背けるのは違うと思うよ。私にとってファンは音楽活動のファクターじゃない。だけどアイドルの狗丸君の原動力がファンなら、そもそも君はとっくにこの世界から離れているはず」
「あんたの話は小難しくてなげーよ。オレはオレを裏切った芸能界と奴らに復讐する。それだけだ」
「まあ、そう言うならそれはそれで、私が止めることでもないけどさ」

名前もそこまで強要させようとしていたわけでもなかったので、狗丸トウマの言葉にあっさりと引き下がって、それ以上の追求を辞めた。テレビのリモコンのスイッチを入れて、適当なニュース番組を垂れ流していると、「で」と声をかけられる。ん?と名前が小首を傾げると狗丸トウマが若干苛立ったように腕組みをしていた。

「あんたはどうなんだよ」
「え……だから、私はプロデュースしてくれるって言うから」
「それだけか?」
「それだけ」
「ふーん……」

意味ありげに見られても何も返せない。名前が少し困ってなんと返したものかと言い淀むと、「あんたの方が」と先に言葉が返ってくる。

「オレからすれば、あんたの方が、気をつけた方がいいと思うぜ」
「まじで?」
「いかにも世間知らずで騙されそうな顔してるからな。もう詐欺にでもあってるんじゃないか」
「否定はできない……」

というか十中八九何かしら騙されていそうではある。月雲了との契約に関しては一行たりとも文を見落とさないよう名前は日頃から気をつけているが、それでも細かい点に関してまで完璧に理解が及んでいるかと言われればそうではなく、知らぬ間に変なことになっている可能性は大いにあった。ただ、同時に最初に交わした「君をプロデュースする」という言葉と、「その見返りに月雲了のタレントとして活動すること」のみは揺らがないとも思っているため、酷いことにはならないだろうと、名前は努めて楽観視していた。

「だいたいこんなジャンクフードばっか食って、アーティストとしての自覚はあんのか」
「うわ、急に狗丸君がお母さん面してきたんだけど……」
「あ"あ"?」
「ガラ悪……」

こわ……と名前は肩を縮こまらせて、狗丸トウマから視線を逸らした。
君の孕んだ世界より