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廊下にはミューフェスの音楽プロデューサーに掴みかかっている若い男がいた。周囲の人間が止めるものの「どういうことだよ!」と興奮している男は中々捕まらない。名前にはその男がNO_MADのボーカル狗丸トウマであることがすぐにわかった。どうしたのかと周囲のスタッフにこっそりと尋ねると、なんでも当初予定されていた出演順が急遽変更になり、NO_MADは元々トリのグループの一つだったところを別のグループに差し替えられたらしい。名前は当然のように新人としては大きな枠をもらっていたが、まさか自分のせいかと不安になる。しかしマネージャーから名前さんじゃないですよとフォローが入ったので、ではどこかと名前が尋ねるとツクモ系列の八乙女事務所から要請があったという。八乙女事務所は今勢いのあるアイドルグループTRIGGERを抱えているので、たしかに番組側としてはNO_MADかTRIGGER、どちらでもよかったのかもしれない。強いていうなら運営側のTRIGGER、といったところか。今年のブラホワ男性アイドル部門はこの2グループのどちらが本命か各メディアでも意見が分かれるところで、事務所全体で今まさに最後の宣伝ツアー中だった。
しかしアーティスト側からすれば番組に裏切られたようなものである。狗丸トウマの怒りもわかるので名前はこの騒動の行方が気になったが、それで自分までミューフェスの収録に遅れてしまっては元も子もない。仕方なく目を合わせないように通路の脇を歩いていく。
「なんで……オレたちの方があいつらよりよっぽど実力は上だ!どうして前座にいなきゃいけないんだよ!」
「ですから運営側からで自分たちにどうしようもなく……」
「はあ!?お前らも結局はそういうことか……!」
狗丸トウマの訴えはちくちくと名前の耳にも突き刺さった。やはり最近NO_MADの活動があまり耳に入ってこなかったのは、名前の思い過ごしでも偶然でもないようだった。どこが主体となってやっているのかまでは明らかでないが、NO_MADは確実に今不調に片足を突っ込んでいる。或いは、流行りの過ぎようとしているアーティストのこれが正しい姿なのかもしれなかった。
名前にはどうしようもない。下手をすれば、というか確実に名前が止めに入ったら火に油を注ぐ結果になるのは明白だ。せめて狗丸トウマの名前を脳内に刻んで、名前は自分のステージへと向かう。共演者で名前と席の近かったRe:valeは、難しい顔でギターの弦を調整している名前に顔を見合わせた。
「元気ないね、どったの名前ちゃん」
「百はよく気がつくね。僕には怒ってるように見えるけど」
「ええ〜いつもより絶対眉間に皺寄ってるよこれ!」
「それを怒ってるっていうの」
「違う違う、名前ちゃんはしょぼっとするとついくしゃっとしちゃうんだよねっ!」
「なんとコメントすればいいのか」
「ほら、怒ってる」
「そそそ、そんなわけないでしょっ。……ないよね?」
「どうなの、名前ちゃん」
「ここに来るまでにNO_MADのボーカルがプロデューサーと揉めてるの見たんですよね」
「……あぁ、なんか急に変わったってやつかあ」
「誰だっけ」
「狗丸トウマだよ!」
すぐに合点がいった百は察したような表情をしたが、そもそも狗丸トウマのことがピンとこなかった千は首を傾げ、すかさず百に突っ込まれる。「でもそんな孤高な千もイケメン……!」と現場ではもはやお決まりの夫婦芸が目前で繰り広げられ、名前はついはは、と笑いが溢れる。
「事務所のでかさってのはやっぱ活動に直接的に関わってくるからさ。NO_MADは今踏ん張りどころなんだけどね……」
「人の気持ちが移るのは驚くほど早いよ」
「そ、だからオレたちは必死で新しいものを捻り出してかなきゃいけないわけ。でもそれって、すごく楽しいし、素晴らしいことだと思わない?」
「わかる……わかります。私音楽が好きだからここにいます。お二人のように魅せるんではない、表現するためだけの音楽が好きです」
「そうそうばっちぐー!名前ちゃん、いつもの顔になった。その調子で、今日も百ちゃんに素敵な歌聞かせてちょうだいっ」
本番10分前というスタッフのコールがかかり、Re:valeは「そんじゃ頑張って!」「一応、期待してるよ」と前を向く。それからすぐにミスター下岡が現場入りし、場の空気も一気に引き締まる。名前はギリギリにではあるもののきちんと入ってきたNO_MADを見据えた。まだ胸にわだかまりは残るが、人のことより今は名前自身のことだった。名前には誰かを省みている余裕など無い。Re:valeのように新人に気を回してやる懐の深さもない。であれば、できるのはステージの上で歌を歌い続けることしかなかった。ツクモプロダクションという大きな後ろ盾を持つ名前にはそれが可能なはずだ。名前は一瞬狗丸トウマと視線があったような気がしたが、平常心に戻っていつも通りに会釈をする。そして目線を外して開始を待った。
「それじゃあ、次は期待のニューシンガー、名前!」
ーーー大丈夫だ、私はまだプロとしてここにいる。ツクモプロの名前、その立場に揺らぎはない。
演奏をやめればきっと終わってしまう話