頑張れ、頑張れ。私の友人はそう言われるのが嫌いだと思っている。名前は逢坂壮五。進学した高校の同級生で、人好きの良い穏やかな笑みを浮かべる少年だった。彼と話すようになったのは図書委員の仕事が同じになったのがきっかけだった。私は所謂隠キャ、顔立ちは平凡、趣味は読書という絵に描いたような目立たない、目立ちたくても花がないタイプで、逢坂君のように誰かに好かれる雰囲気なんて持っていなかった。妬み、もあっただろう。しかしそれ以上に彼が努力していることも知っていた。同じカウンターで仕事をしていても、逢坂君は常に何かに向かっていた。みんなが後回しにしよう、とか休み時間に話していた宿題だったり、或いは数週間後のテスト範囲の問題、次の日の予習。先生に頼まれたらしいポスターの図面。真面目かよ、と茶化して切り捨てるのは簡単だったが、たまにすごいねと褒めるのはひどく勇気がいった。
そしてそんなに努力している様子の逢坂君には、間違っても「頑張れ」なんて言ってはいけないと思っていた。ほら、頑張ってる人に言ってはいけない言葉ナンバーワンとよく聞くし。彼が何かしている時、私は隣で本を読むか、頬杖をついてそれを覗き込み、たまに突っ込むのが楽しかった。
そうして何となく過ごした図書委員も三年目になって、結局ずっと同じクラス、同じ委員だった私も逢坂君も三年生。私の花の咲かない三年間で唯一これだけが自慢だった。しかし、進路をいよいよ決めなくてはならないとなった時、私自身は適当な大学に進学して就職するつもりだった。それは逢坂君も同じだと思っていた。まあ彼の場合、その「適当」、が私とはレベルの違う話なのだろうが。
逢坂君の今日の何かは、進路希望の調査票になっていた。それは総合の時間をとってみんなが書いたもので、まさか彼ともあろうものが書き淀んでいたとは意外だったので、私は「真っ白だ」と素直な感想を口にした。

「あ、はは、名字さんは、もう決めたの?」
「落ちても受かっても、一応後悔しないところね」
「そうだね。やっぱりそれが一番だよね」

逢坂君の綺麗な指先が白紙をなぞる。別に今確定ではないのだから、適当なところを書いて出せばいいのにと思った。そしてその通りに言うと「僕は…」と口をまごつかせていた。何事もスマートにこなす逢坂君にしては珍しいその姿は私に妙な焦りを抱かせた。微かな違和感とともに、この三年間で私が築いた逢坂壮五という人間の在り方が、この一瞬で揺らいでいく、そんな感覚だった。彼が一度でも、何かに答えを返せなかったことがあっただろうか?

「逢坂君、何かやりたいことがあるの?」
「え?」
「だって大学に行くのが乗り気じゃないって、そういうことじゃないの…?別にいいと思うよ、世の中専門学校に進学する人も就職する人もたくさんいるわけだし、うちの大学進学率なんて気にしなくていいじゃん」
「あ、いや、全然そんなことはないんだ!大学には行くよ!すごく行きたい!でも…」
「でも…?なんか本音と建前って感じだ、そういうの」

「そういうの、逢坂君らしくない」と言おうと思って、やめた。私が逢坂君の何を知っているという。一週間に一回、放課後の図書室で過ごすだけの関係に、自惚れることができるほど私は自分に自信がなかった。言葉を途切れさせた私に逢坂君が「…ごめん、名字さんの言う通りだ」と、何も悪いことはしてないのに謝った。寧ろ言い辛いことを追求した私の方に罪がある。栞を挟んだ単行本を開いて、顔を隠した。

「ごめん。図々しかったね。あと少しだけど、逢坂君とは仲良くしたいから引かないで。と、友達が自分の行きたい進路を決め兼ねてるならちょっと力になりたいと、思って…」

心配で…と、言葉の最後はしりすぼみになって消えていった。

「心配…?」
「だって逢坂君なんでもやるしできるし、だから、それで、ちょっとだけ調子に乗っただけ。許して」
「ううん、全然気にしてないよ。寧ろ嬉しかったんだ、そっか、心配してくれたんだ…」

なんだろう。ちらっと本をズラすと見えた妙に綺麗な笑顔の逢坂君に、私はさっと本を戻して眼鏡にグリグリとページを押し付けた。文字なんて見えたものではないが、落ち着け、落ち着け、と黄ばんだページの匂いを嗅いで念じた。隠キャ特有のすぐ勘違いする癖はよくない。

「名字さん、僕、音楽が好きなんだ」
「音楽…?」

それは初耳だった。彼は教室でも常に誰かに囲まれているかノートを開いているかしていて、音楽プレーヤーの一つも使っていないことは知っていた。音楽の授業はほとんど無い学校で、触れる時間も少ない。

「おじさんの影響で昔から好きなんだ。でも家の事情でどうしても大学に行くしかなくて、それ自体はまだいいんだ。ただ…」
「うん」

私は逢坂君が喋るのを根気強く待つことにした。相変わらずこちらは本で顔を隠したままだし、向こうは向こうで顔が見えない分何を考えているのか想像もできない。その妙な距離感は私を緊張させ、同時に多分、これは絶対に失敗してはいけない場面だと感じた。そこから数分が経ったようにも思うし、或いは数秒だったかもしれない。とにかく、その沈黙は私に嫌な汗を流させた。

「……ただ、将来は、お、音楽に関係する仕事に就きたいな、って…」

そんな、プロポーズでもするかのような迫真の声で語ることかとも思ったが、それだけ逢坂君がその言葉に思いを込めているのはわかった。わかったので、私はそれ相応の雰囲気でもって返さねばと思い、恐る恐る顔を本からずらした。逢坂君は私を見ていなかった。椅子に座った体を丸めて、両膝に置かれた拳は力が入りすぎているのか元々白い色をさらに青白くさせている。瞳を閉じて、何かに耐えるように俯いていた。
ああ、私、逢坂壮五を何もわかってなかったんだな、とその時悟った。赤っ恥もいいとこだ。三年間人気者の男子と定期的に過ごして、私、実はちょっとは特別なんじゃないかと自惚れていた。私はどこまでも隠キャで人付き合いが苦手。それなのに彼の内面なんかこれっぽっちもわかるわけなかったんだ。

「…うん、それは、頑張ったら、いいんじゃないかな」

だから、ずっと言わないようにと気を使っていた、タブーを犯してみた。タブーを作ったのは、逢坂君に嫌われたくないからだった。本当にゆっくりと顔を上げた逢坂君の目尻はほんの少し赤かった。
私はそれがなぜか笑えてきた。あの逢坂壮五が涙目で必死に人に夢を語っているなんて!一体誰が彼をスマートな完璧人間だと言ったのだろう!大概が私だった。それだけ、決めつけていたということだった。

「頑張ったら、って…」
「頑張れ逢坂君。応援するから、目指しなよ、音楽」

「私はあんまりわかんないけど…」と言い訳っぽく後付けしてみたものの、しっくりこなくて「いや、とにかく、やりたいならやってみなくちゃ。逢坂君はなんでもできる。それだけ努力もしてる。今回はやらずに諦めるなんてダメだ」そんな逢坂君は見たくない。

「頑張れ逢坂君、それでチャンスが来たら飛び込むんだよ。応援するから、必要なら協力もするから、頑張れ」
「なんだろう、名字さんの方が、僕より必死みたいだね…」
「逢坂君が凄いと、私の友達はすごいんだって自慢できる。私は人にすごく褒められるような何かはないけど、代わりに逢坂君が私の分まで活躍してくれたら嬉しいから」
「そんなことないよ!名字さんはとっても、とっても」
「とっても?」
「…と、とっても優しい人だから!僕は君以上に優しい人には会ったことがないんだ!」
「う、うーん」

褒めるところがない人に使うのナンバーワンが優しいってこと、逢坂君は自覚してんのだろうか。私が苦笑いして「ありがとう」と言うと、肩を落としてしまった。なんかごめん。しかし、逢坂君はすぐに気を取り直したのか、カウンターの机に向かうと進路希望表に今度は迷わずにどこかの大学の名前を記入しだした。それをいつものように頬杖をついて見守っていると、不意に横を向いた逢坂君と目があった。

「名字さん、また、その、僕が迷ったっていうか、悩んだ時には」
「うん?」
「頑張れって、言ってくれないかな…」
「は…」

ほんのりと頬を赤らめてそんなことを言う逢坂君に私は思わず、顎が手からずり落ちた。拍子に落ちた眼鏡が、地面に落下して音を立てる。
そんな高校三年生の、ある日のこと。

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