甘酸っぱいフレーズがイヤホンから流れる。かなり前に流行った曲。私も好きな人がいたらこんな風に恋をしたい。そんなことを思ってた記憶がある。

 机に突っ伏したまま教室のドアを眺めて、時々外を見て、ただ待つ。
 そういえば、ついさっき気づいたことがある。待つのは意外と嫌いじゃないらしい。この時間に限ってだけかもしれないし、来るのがわかっているからかもしれないけど。

 ドアの小窓に佐久早くんらしき姿が見えると、急に昨日のことが甦る。ズボンのポケットに突っ込まれている手が大きいことは、見えなくてももうわかってる。
 イヤホンを外して、いつも通りの挨拶を交わすも、視線は交わらない。間違いなく、私のせいで。

「え……なんだよ」
「急に実感わいてきちゃったの」
「……今さら?」

 可笑しそうに言う佐久早くんは呆れているような、笑っているような。マスクを直した佐久早くんの仕草を見て、あることに気づいた私はよく声の響く教室で「あ!」と大きめの声を出す。同時に見た佐久早くんは怪訝な目。

「私、見たことないかも。佐久早くんがマスクはずしたの」
「あ〜〜、そうだっけ」
「うん、絶対。見たことない!」
「そんな重要なこと?」

 重要なんてもんじゃない。付き合ってる彼氏のマスク姿しかみたことないってなに。聞いたことないよそんなの。
 何も口に出さず、ふて腐れた顔で佐久早くんを見れば、確実にあきれた表情なのが読み取れた。

「いや。外さないし」
「……じゃあ今日部活見に行く」
「バイトは?」
「ないよ」
「……動機が不純」
「部活見てる子は、大体不純な動機だと思うけどなぁ」

 悔し紛れの発言に対して、斜め上を見ながら考えた佐久早くんは少し納得してくれたような表情だ。よく考えてみれば、佐久早くん目的か、はたまた違う人目的かはわからないけど、しょっちゅう練習を見ている子は彼のマスクなし姿にどうこう思わないレベルまで慣れてるんじゃないかと思った。羨ましい。

 窓の外を見ながらいろいろ考えてから視線をもとに戻すと、佐久早くんは黙ってマスクのゴムに指を引っ掻けていた。

「……外すの?」
「振り返るの早すぎ」
「やめるの?」
「……やめないけど」

 案外あっさり外したマスクに隠されていた口元が見えて、一瞬で穴があったら入りたいと思った。薄い唇とか、すらっとした鼻とか、何も特別でないはずのマスクの下は、気安く見てはいけかったみたいだ。

「……自覚ないんだもんなぁ」
「は?」
「佐久早くん、不意打ち多いんだもん」
「……人のこと言えないじゃん。みょうじさんの不意打ちどんだけくらったか」
「佐久早くん程じゃないよ」

 きっと端から見れば、ただのどうでもいい会話なんだろうなぁ。でも楽しい。佐久早くんの口元も、満更でもないように見える。

「早く慣れるね、マスクしてないの」

 前に向かって伸びをしながらそう言うと、思いっきり広がっていた指がぎゅっとまとめられて引っ張られる。ほらまた、不意打ち。そういうのだって言ったのに。
 佐久早くんの顔が近づいて、いつも話すよりも距離が近くなった。

「いつ?」
「んー、わかんない。……近いね」
「うん、近い」
「な、なに?」
「練習してんの」
「誰の練習?」
「俺」

 佐久早くんは何の練習してるんだろう。視線が絡み、佐久早くんはすぐもとの距離に戻る。まだ早すぎるであろう一瞬意識したそれを、私たちはいつかするのかな。
教室の時計を見た佐久早くんは、外していたマスクをつけ直しながら思い出したように言った。

「みょうじさん、来週の日曜用事あんの?」
「なにもなかったと思う。部活、休みなの?」
「……どっか行く?」
「行きたい!」

 デートだね!とはさすがに言えないまま浮き足立っていると、佐久早くんの大きな手に髪を撫でられた。ほんの何回か。
 大きな手のせいで佐久早くんの表情は見えないけれど、なんとなく想像できる自分がいる。もちろんドキドキはするけど、それよりも。

「なんか、落ち着く」
「犬っぽいな」
「そう?」
「喜んだり落ち込んだりめんどくさいけど、なんかかわいい」

 きゅうっと心臓が縮んで、胸が苦しくなった。直接的な言葉を言われたのは、私の記憶を辿っても多分初めてだったから。返す言葉は何も思い付かなかった。

「もう、触りたくなったら触るから」

 きっぱりと言い切られて、素直に頷く。 ベタベタするのが嫌いそうな佐久早くんのイメージは、もしかしたら違うのかもしれない。

 遠慮がちな風で揺れた佐久早くんの髪に、私も触れたいと静かに思った。