電車の中。自分でバランスを取り、ふと見上げた先にはお菓子メーカーの『手作りバレンタインをあげよう』という広告が視界に飛び込んでくる。ぞわぞわと嫌な感じがして、窓の外に視線を下げた。手作りなんて推奨するもんじゃねぇ。
欲しいか欲しくないかと聞かれれば、簡単に答えは出る。もちろん答えは欲しくないの方だ。第一に手作りは絶対に受け取ることはないが、市販のものは状況によっては仕方なく受け取ることもある。時々いるんだ。断ると泣いたりするような女子が。男なら全員喜び、全員お返しをあげると思われては困る。
朝練がおわり、教室へ行く。なまえちゃんは、もうそろそろ来ててもおかしくないんだけど。いる……まだいないじゃん。
携帯を見て、ポケットにしまい、頬杖をつく。暇だ、と思った瞬間からの時間の流れは遅い。
なまえちゃんと付き合う以前に自分がどうこの時間を過ごしていたのかすっかり忘れてしまった。どうして時間潰してたんだっけ。忘れたな。
音もなく、思っていた姿が現れる。静かに挨拶をしたなまえちゃんに、何かあったのかと聞こうかと思った矢先、飛び込んできた紙袋にピンときてしまった。うっすらと緊張の面持ちを浮かべ、頬が赤い。スクールバッグを机に置き、紙袋から小さな箱を出したなまえちゃんが変わらない表情のまま俺の方に来て、机の上に置いたあと遠慮がちに言った。
「臣くん」
「ん」
「これね。今日、バレンタインだから。なにかあげたいなって思って選んだんだけど」
「うん」
「……いる?」
「は?………くれないの?」
もう無意識、というか自然に言葉を吐く。多分ここに古森がいたら、大口で笑って子供かよと言われるのような気がする。
だって、当たり前にもらえるもんだと思うだろ、なまえちゃんには。自分の眉間に皺が寄ったのがわかる。なまえちゃんは俺の表情をみて、嬉しそうにへらりと笑った。ちょっと、よくわかんねぇな。
俺がいらないって突き返すと思ったのなら、なまえちゃんの中の俺のイメージは相当なひねくれ者だと思う。まぁ、そう思うのもわからなくはないけど。もちろん、拡大解釈だとは思うけど。
ふと視界に入ったそれに、違和感を覚えた。これが入っていたとすれば、あの袋は多きすぎる、と。視線の先を見たなまえちゃんは、不思議そうに首を傾げた。疑問を投げて、きょとんとした表情でなまえちゃんは言う。
「あれは友達の分。昨日焼いたチョコチップクッキー」
「……これは?」
「それはデパ地下で真剣に選んで買ったチョコ」
……別に、不服なわけじゃない。知らなかった一面を知るタイミングが悪かったんだと思う。なまえちゃんとの記憶を辿れば、手作りの何かをもらうことは一度もなかった。知らず知らずのうちに彼女は俺に気を使っていたのかと思うと、ざわざわとどこかうるさく、気持ち悪い感情が生まれる。当然だと思っていた手作りに対する苦手意識について、新たにそこで気付かされるとは誰も思わない。まさか自分が、なまえちゃんが作ったクッキーなら難なく食べれそうな気がしているとは。
▽ △ ▽ △
はっきり言う。俺は機嫌が悪い。間違いなくなまえちゃんが古森にクッキーをあげたのが決定打だ。
今年はなまえちゃんという彼女がいるのを知っている奴が多いらしく、去年よりも断る回数が少ない。時々こちらを見るなまえちゃんが不服そうにしているのは気付いていたものの、子供じみたあの一言以外なまえちゃんと話していない。俺に怒っているのかとも思ったが、それとは違うような気がする。ただ、意地を張っているわけでもなんでもなかった。気づいたら話していなかっただけだ。
「臣くん」
「……」
「話そう?」
「……わかった」
……顔が。なまえちゃんの顔がごめんなさいと言っているようだ。寂しそうに、申し訳なさそうに。話すって、何を話すんだ。なまえちゃん以外にだったら簡単に外に出ている言葉が心のどこかに消えて、吸い込まれるように小さな背中のあとをついて歩いた。
瞳に映る俺は、相変わらず。いつも通り。伏し目がちになったなまえちゃんに、意識の行き届いていなかった手を拾われる。ぎゅっと握ってから、力を緩められ、指を絡められた。喧嘩をしているわけでも、言い合いになった訳でもないが、さすがにそういうタイミングではないような気がする。
ただ、なまえちゃんの目はいたって真剣だった。
「あのね。古森くんにあげたのはね、アドバイスくれたお礼だよ」
……今まさに気付いた。今日は彼女にとっても俺にとっても、付き合うようになってから初めてのバレンタインだ。
「色々考えてね、手作りは嫌かなって思ってデパートのチョコ選んだの」
……知ってる。なまえちゃんの予想は半分合っている。でも、残りの半分は間違ってるな。
絡んだ指の腹を撫でると、なまえちゃんは伏し目がちになった。くすぐったそうに、恥ずかしそうに。その、なまえちゃんの瞳が俺を見ていないうちに不満を溢すと、びっくりしたように俺を見上げた。
「臣くんは、手作りがよかったってこと?」
「……正直どっちでもいい。なまえちゃんがくれるやつなら」
「そっか。手作りでもいいんだ」
「案外わかってねえよな、なまえちゃん」
急に黙る彼女を観察して、繋いでいない方の手をなまえちゃんの頭に乗せた。髪を撫で、前髪をさらりと掬う。今ここには誰もいない。むくむくと欲が沸き上がる。唇に触れたくなり、視線が交わると、思い出したようにポケットからクッキーを取り出し、割れていないかを確認して、俺の手に乗せる。
……まさか。なまえちゃんの手作りが気になってイライラするなんて、自分でも驚きだ。
「……美味そう。帰ったら食べる」
たった一言。俺の、その一言で嬉しそうに笑うなまえちゃんに、俺はいつか聞くんだろうか。何で俺を好きになったのか。俺といて楽しいのか。
ここに来てから繋がれたままの手を見て思う。きっかけや、理由なんてなんだっていい。これから先、いつだってそれを聞く可能性はあるだろ。ずっとなまえちゃんとは一緒にいるってわかってるし。