やさしい匂いがする。朝の匂いかと思ったけれど、これは臣くんの匂い。なにが幸せかって、朝がきて瞼を持ち上げれば臣くんが隣にいることだ。すだれのような自分のまつげの残像の向こうには、規則正しい寝息と、ほくろがふたつ。ウェーブのついた髪は寝癖がついていて、臣くんに少し近づいて眺めていれば、ゆっくりと胸が高鳴った。
そっと髪を触ると、一瞬だけ眉を潜めた臣くんが私の手を掴んだまま布団の中に入れる。ベッドの中は体温でしっかりと温まっていて、この間しまった毛布はもう必要ないな、なんて思った。
おはよう、と様子を伺うような表情で呟けば、おはよ、と呟きながら目がゆっくり閉じていく。そんな臣くんは、今日はオフだった。
臣くんの住む寮はいたって普通のマンションだけど、同じマンションには独身のチームメイトが住んでいる。からかわれたくないからと寮に彼女を泊まらせない人もいるみたいだけど、臣くんはそうじゃなかった。私という存在が臣くんにとってはなんの不思議もないものだったからかもしれない。
喉まで込み上げる幸せが、体中に溶けていく。そのうち体からも溶けだして、ベッドを伝って臣くんに伝わればいいのにと思う。
繋がれたままの指がゆるゆると動いて、思わず笑みを漏らせば、臣くんの薄い瞼がそっと持ち上がった。
「……なに」
「なに、じゃないよ。臣くんでしょ」
「なにが」
「……もう、なんでもない」
曖昧な痴話喧嘩。かすれた声。他愛ないような空気。臣くんは知ってるかな。こういう幸せってが一番気づかない幸せだって。
ベッドから抜け出ると、一緒に起きた臣くんもベッドのふちに座ってぼうっとして、私の後ろを歩く。目を開けてはじめて見た人を親鳥だと思って着いてくる雛鳥みたいだ。
ふざけて立ち止まって振り返ると、臣くんがぴたっと足を止めてくしゃくしゃと髪を触る手を止めた。
……私の後ろを歩く、大きくて可愛い恋人。ギャップが渋滞しているけど、私しか知らない臣くんがいるのは誰にも自慢しない自慢だと思った。
「今日、どっか出かける?」
「うん」
「じゃああんまりのんびりしない方がいいね。準備するのついつい遅くなっちゃうから」
「……まぁ、焦って行くような所じゃないし」
「どこ行くの?」
「う〜〜〜ん………とりあえず顔洗う」
両肩に大きな手が乗ったと思ってすぐ、私を追い抜かした臣くんは、洗面所へ向かい、私はそれの姿をそっと追う。何かを隠すように、言いたそうに、でもそこまで秘密じゃなさそうに言った臣くんは、ちょっとだけ悪くない表情をしていた。
いつもの朝食メニューに、いつもの白いお皿に、いつもの臣くんの寝癖。それが時々であったとしても、年月が過ぎれば過ぎるほどそれは普通みたいに思えて、臣くんと私にとってはただの幸せになる。
▽
二人でマスクをして、外に出た。みんなスギ花粉に怯えてマスクをしているから、臣くんと私が手を繋いで歩こうが彼氏が高身長のただのカップルにしか見えない、はずだ。
通りすぎようとした公園に目を向ければ、小さな桜の蕾が乾いた木の至る所に散りばめられていて、思わずそれに見とれた。咲いた桜は綺麗だけれど、蕾には期待や未来が感じられるような気がして好きだった。そして、視界の端でブランコが揺れる。
「…なんか急に思い出しちゃった。高校の時、初めて公園に寄り道した時のこと」
恋人になったあの日のことだ。もう何年前になるのかな。臣くんがプロになって、私は東京で仕事をして、今じゃすっかり慣れて。
「なまえちゃん」
「……なに?」
「今から行くところで、指輪を買うから」
「え?あの、誰に?」
「……それは聞かなくてもわかると思うんだけど」
何年もの時間を共にして、私の誕生日プレゼントは色んなものをもらっていた。ネックレスもイヤリングも、もちろんもらっていたけれど、指輪だけはもらっていなかった。それは多分、臣くんにとって決意の現れのようなものだったからだと思う。
でも、もしも臣くんがペアリングを買おうなんて言う姿を想像したら、ちょっとびっくりしてしまっていたかもしれない。
目の前の臣くんの瞳は黒くて、深くて、私を捕らえている。感触を知っているその唇から紡がれる言葉から出る言葉に私はきっと首を縦に振るし、泣くのを我慢するんだと思う。
「……なまえちゃんとはずっと一緒にいるから。死ぬまでずっと」
重くずっしりとした愛が目の前に差し出され、私は繋がった手を見つめて、また臣くんを見た。
「せっかく婚約指輪買うなら本人に選んでもらった方がいいかと思って」
「ま、って、あの。臣くんと私が?」
「……しないの、結婚」
いつも臣くんは突然だった。思い返せば、臣くんに何度も驚かされたし、いつもちょっとだけ曖昧だった。桜を見上げて立ち止まって、もう少しで臣くんの誕生日だねなんて言おうと思っていたのに、それもきっと口には出せないだろう。
「なまえちゃん以外はありえない。今までも、これからも。今までと同じがいいならそれでもいい。でも俺はもっと確かなずっとがあってもいいんじゃないかって思う」
本当に嘘のない人だ。言葉もなく、心の中で肯定すれば、また落ち着いた声が降った。
「俺と結婚して、なまえちゃん」
答えは初めからひとつしかなかった。臣くんからもらえるずっとが、どんなに誇らしく幸せなことか、今まで以上に噛みしめて、私は黒い瞳を見つめた。
「……うん。ありがとう。これからもずっと、一緒にいようね」
「ああ」
ゆっくりと通りすぎた公園では、親子が楽しそうに遊んでいた。繋いだままの手は少し冷えていて、もしかしたら臣くんは緊張していたのかもしれないなんて想像したら少しだけ嬉しかった。
まっすぐ前を見る目があまりに愛おしくて見つめていたら、目が合って転ぶなよなんて言われて笑ってしまった。
臣くんは、普通みたいに普通じゃないことをする。オーバーワークはしない、休息はきちんと取る、食事は管理通りにバランスよく食べ、毎日欠かさずストレッチをして、きちんと生活をしていく。その臣くんの日常には時々私がいて、滅多にない柔らかな空気を味わわせてもらって。
その生活の中に私がこれから入るのだ、ずっと。
ずっと。
それがずっと続いているからこそ、軽々しいものでないのがわかる。こんなに信頼のできる口約束、どこを探してもないはずだ。もっと、もっと、なんて贅沢なことは言わないから、ずっと、これからも一緒にいよう。そう強く思った。
桜を見たら今日のことを思い出して、臣くんの誕生日プレゼントを用意して、また来年もなんて思う。そうやって日々を重ねて、臣くんのそばにいるよ。ずっと。