点けっぱなしのテレビなんて意味もなく、そわそわと待っていた。臣くんが帰ってくるのを。
いつも定期的に来ていたものが来なくなった。もしかしてなんて思い始めたのはちょうど臣くんが遠征に出たその日だったから、気になって仕方ないのを我慢して我慢して、それはもう穏やかでない数日間を過ごした。箱を開けるのさえも我慢して、臣くんが遠征から帰ってくる今日ようやく妊娠検査薬の箱を開けた。
トイレを出て、浮き上がった線を眺めると、じわじわと実感が込み上げる。箱の裏を何度も見て、私の間違いじゃないのを何度も確認して。そして間違いなく、くっきりと小窓にラインが入り、陽性を示していた。
だから、朝のニュースも、そのまま点けっぱなしだった番組も、何もかも頭には薄らな記憶しか残らなかった。早く帰ってこないかな。それだけを考えて、時折ベランダから外を眺めたり、そわそわ、そわそわ。
ーーーガチャッ
帰宅を知らせる音に、テレビを消してソファから立ち上がると、廊下にひょこっと顔を出して疲れた様子の臣くんを見た。
「おかえり」
「……ただいま」
いつも臣くんのことを好きだと思うけれど、ウェーブのかかった髪が揺れて、ほんの少し目が細められると、愛しさのようなものが身体中に広がる。今日の空がとっても青いことも、この瞬間の臣くんの表情も、これから先ずっと忘れることはない気がする。
出会って、付き合って、結婚して、2人の時間をたくさん過ごしたけれど、妊娠したと言ったら臣くんは、どんな顔をするんだろうか。驚くんだろうか。笑ってくれるんだろうか。
「お疲れ様〜」
「……疲れた」
玄関にスーツケースを倒した臣くんは、手を洗うために洗面所に向かい入念に手を洗う。
子供のように洗面所のドア枠から臣くんを観察していたら、うがいをして顔を上げた臣くんと鏡越しに目が合った。振り返った臣くんがちょっとだけ怪訝な表情をしてから笑ったから、ちょっとだけほっとする。
「…なに、なまえちゃん。さっきから」
鏡にうつった私の顔はたしかにそうつっこみたくなるほどにゆるゆる。ペーパータオルで手を拭いた臣くんがちょっと呆れたように私の頭にぽんぽんと手を置き、私は臣くんの後ろに回ってソファに誘導するように広い背中押をした。
「臣くん、座って」
畳んだティッシュの上に置いていた検査薬をとり、大好きな名前を呼びながら隣に座る。臣くんは私が手に持っているものを見て、さらに不思議そうな表情をした。
「これ見て」
「うん」
「線ある?」
「うん。ある」
臣くんが私の手に持ったままの検査薬を見たのを確認してから、後ろに隠していた箱を渡す。裏面の説明の箇所を表にして。
「ここに線があると、なんて書いてある?」
すぐに私の言いたいことを察したらしい臣くんの視線が検査結果と箱を何度か往復し、しっかりを私を見た。その瞳には、驚きか。もしかしたら感動みたいなものも混ざっているように感じた。
「……これ、いつわかったの」
「今日だよ」
「……」
「今日の朝やってみたの。あれ?って思ったのは一週間くらい前かな」
見上げても、臣くんから言葉はない。きっと、喜んでくれているのだと思う。数秒無言の時間があって、その間臣くんと私は見つめ合っていて。言葉にできないような思いがお互いの心に巡っているのを何となく感じた。
「……なまえちゃん、よく一週間も内緒にできたな」
「そうでしょ」
言葉を交わして。隣り合って座る私たちの間のこぶしひとつ分ほどの隙間を埋めた臣くんの長い腕が私の背中に回って、優しく背中をさすってくれた。鍛えられた胸に頭を預け、臣くんの匂いがする、なんて思う。ありがとうも、うれしいも、臣くん気持ちすべてが隠れている腕の中の心地よさに沈みながら。
「だって。遠征前に心配かけたくなかったから。でもすっごい我慢したよ」
「だろうな」
「なんで笑うの、」
「……嬉しいに決まってるだろ、こんなの」
▽
おばあちゃん先生に差し出されたエコー写真を見て、臣くんと2人でそれを眺める。袋があって、豆つぶみたいなそれはまだまだ小さな命。隣を見上げて臣くんの表情を伺えば、深く黒い瞳は一点を見つめていた。
「おめでとうございます。妊娠6週です」
「ありがとうございます」
「最初のうちは経過を見たいから、また2週間後に来てくださいね」
「わかりました」
「それにしても旦那さん、大きいわね〜」
「……よく言われます」
困ったように返事をした臣くんに笑い、先生にお礼を言って頭を下げると、お会計を済ませて病院を出た。
家までは電車で二駅ほど。電車を降りて家に向かう間、臣くんは私の手をとって、歩幅を小さくして歩く。そこまで気を使わなくても、と言ってしまいそうなくらいに優しく繋がれた手はあたたかい。
「これからはちょっとでも調子悪いと思ったら無理しなくていいから」
「うん」
「妊婦は疲れが出やすいって」
「……臣くんなんでそんなこと知ってるの?」
「さっきなまえちゃんが読んでた雑誌に書いてあったよ」
「あれ、そうだったっけ」
「……うたた寝してたからちゃんと読んでないだろ」
この優しさを、私は知っている。何度も味わって、何度も好きだと思った。何度も、何度も。
結婚して。そう言われた公園の横を通り過ぎるとき、小さな子供と、抱っこひもに抱かれた赤ちゃんが視界に入った。
「俺、考えてたんだけど」
「なに?」
「子供が生まれて、まわりが驚くぐらい可愛いと思っても、いちばん大切なのはなまえちゃんだと思う」
胸の奥が音を立てる。そよそよと風が吹くような、心地よくあたたかい音。深く黒い瞳はいつだって優しくて、底知れぬ愛が詰まっている。
「じゃあ、もしこの子が女の子で、パパ結婚して!って言ってきたら?」
「……断るしかない」
「あはは!それ見たら私、笑っちゃうかも。あ、でも。そうなってみたら、対抗心燃やしちゃうかもしれないけど」
「……誰にだよ」
「それは……この子に?」
緩んだ瞳は私を見て、前を向いて。マンションが見えて、もう帰ってきたような気持ちになれば、洗濯物乾いてるかな。帰ったら取り込まなきゃ。なんて思って。
「だから、いちばんは一生なまえちゃんだって」
冗談混じり私の言葉にまっすぐ返された言葉は、臣くんの本音そのもので。送られる視線はいつもとなに一つ変わらない、静かであたたかなものだった。
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