まぶたにキス


 音がしたわけでもなんでもないのだけど、瞼に何かがふにっとくっついて離れていく突然の感覚に目が覚めて、ゆっくり瞼を持ち上げる。

「あっ」

 それはもうびっくりした瞳の虎くんが目の前にいて、その表情に何か意味があることも、何をされたのかも、じわじわと寝起きの頭で理解は進んでいく。とくとくと大きく心臓が波打ったのは私自身しか知らないけれど、虎くん自身は気づかれたか気づかれていないかを気にしているような気がする。

「お、おはよ」

 どもどもした虎くんの様子にどきりと心臓が高鳴った。今、おはようのキス的なやつをされたような気がする、と。しかもとってもロマンチックなところに。
 そんなことを考えていたら、夕飯を美味しいとたくさん食べてくれたことも、お風呂上がりの髪が下りている姿も、昨晩のあれこれも。一気に思い出してきてしまって、私はもうキャパオーバーになった。
 たった一言のあいさつで、きゅうっと胸が苦しくなってじんわりと温かくなる。虎くんが困ったように優しく笑ったのを見たら尚のこと。

 カーテンから差す光を受けて、ふと思った。いま何時なのかなって。挿していたスマホの充電コードを抜くためにもぞもぞと寝返りを打ったら「えっ」と戸惑うような声が後ろから聞こえて、コードを抜いたスマホを手にしたまま振り返る。

「…ん?」
「いや、その、なんでそっち向いちゃうのかなーって」
「……」
「…なまえ?」
「私ね。虎くんのそうやって素直に言ってくれるところ、大好き」

 スマホを包んで寝言でも言っているみたいにそう言えば、みるみるうちに虎くんの顔が赤く染まる。ふわふわした気持ちに満たされて、見つめ合って。それでも虎くんの手が伸びてこないのはいつものことで、ちょっと寂しい。

「虎くん、さっき何かした?」
「…し、してない」

 へらりと笑って問い詰めても、ばればれの嘘がぽろぽろと虎くんから出てきて、可笑しくなる。

「ほんとに?」
「う、」
「ほんとのほんとに?」

 じりじりと顔を寄せると、困ったような表情の虎くんが眉を下げて、人差し指の腹でちょんと私の瞼に触れた。ものすごく悪いことでもしたようにしているけど、私は嬉しくて聞いているのを彼は未だに気付いていない。

「ここに、その。キキキ、キスを、」
「虎くん。ごめんね、いじわるしちゃった。どうしても言ってほしくて」
「え、あ、いじわる?」
「だって。虎くん私のことあんまり触ってくれないから」

 いや、だって。と一生懸命説明しようとする虎くんがあまりに好きすぎてその表情をじーっと眺めていたら、虎くんが耐えかねるように私に背中を向ける。

 スマホなんてその辺にぽいっと投げて虎くんの背中をこちょこちょとくすぐると、身をよじった虎くんが慌てて振り返り、私の腕ごとぎゅーっと捕まえるように抱き締める。

「くすぐりやめて、弱いから」
「やった〜、虎くんの弱点発見」

 普段は手を繋ぐくらいしかしないけれど今は違う。私を離せばこちょこちょされるし、近すぎて顔を背けるのは不可能に近い。してやったりな顔で笑っていると、虎くんが観念したように瞼に小さくキスを落とした。今度は私が起きているうちに。

「あ。虎くん、おなか空いた?」
「……空いた!」
「じゃあ朝ごはんにしよ」
「もうくすぐるなよ」
「…それはどうかなー」
「マジ勘弁して」
「あはは、やらないやらない」

 そしてようやく、私は解放された。警戒心の高まっている虎くんの腕の中から。



 朝ごはんのメニューはもともと決めていたし、昨日の夜に軽く準備をしておいたからすぐに食べられるようになっていた。おなかを満たしてお皿を下げると、独り暮らしのアパートのシンクはすぐにいっぱいになる。私も全く同じキッチンを使っているからそれはよく知っていた。

 スポンジに洗剤をつけて洗い物を始めると、適当にたくし上げただけの服の袖がゆるゆると落ちてくる。ちゃんと捲っておけばよかったと思ってもそれは今さらだ。
一度手を洗って綺麗に捲ればいいのはわかっているけど、そんなに洗い物が多い訳じゃないからいいかとそのまま頑張ることにした。まぁ、頑張ったところでずりずりと袖口が下がるのは変わりないけど。

「袖、濡れそうじゃん」

 後ろを通りがかった虎くんが覗き込んでそう言うと、後ろから包み込むように手が伸びてきて、袖をクルクルと綺麗に折りはじめた。

「えっ、と、虎くん…」
「まだ。反対もやるから待って」
「あ、ありがと」

 不意打ちに耐えられずに胸が高鳴った。肩口に虎くんの顎が乗って、虎くんの使っているシャンプーの匂いがする。袖が落ちそうでヒヤヒヤすることはなくなったものの、ドキドキが止まらない。

 何もなかったかのように部屋に戻っていった虎くんの背中を見送ってからすすぎを再開すれば、蛇口に写った私の顔がほんのり赤くなっているような赤くなっていないような。

 ほんと、無自覚って怖い。すすぎの終わった手をタオルで拭きながらそう思った。



3万打リクエストより