エメラルドブルーの奥
ウェットスーツ姿の澤村さんにちょっとだけ心臓が跳ねた。しっかりした太ももに、がっしりした肩。腹筋があるのは……昨日から知っていた。
私がウェットスーツの下に着ている水着は、去年友達とノリで買ったビキニだったけど、おそらくウェットスーツを脱ぐことはないはずだと予測を立てているし、そうじゃなくちゃ困る。
「慌ててスーハースーハーしないで、ゆーっくり呼吸してくださいね、いっぱい吸って、いっぱい吐く、そう〜でまた吸って〜」
温水プールでボンベを背負い、呼吸の練習が始まってから知る、店員のお兄さんはインストラクターもやっているようだ。逆にこの軽い感じが強ばらずにやれるような気がする。横目で見れば、きちんと話を聞いてきちんと練習に取り組んでいた。
「はーい、じゃあ大丈夫かな」
あんまり大丈夫でもなかった。不安は5割、いや6割はあった。意識すればするほど焦りが出て、だけど潜ってしまえば海面には簡単に上がれない。恐怖のようなものは間違いなく存在している。
「昨日は大丈夫かな〜って思ってたんですけど、こんな晴れてますし、波もないし、すごい綺麗だと思いますよ〜」
青い空。白い雲。エメラルドブルーの海。
お兄さんの言葉に計り知れないほど詰まった説得力がじわじわと上がっていた私の不安メーターを少しずつ落ち着いていく。
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小さな船に、穏やかな海。急遽買った水中用のインスタントカメラをぶらさげ、海底まで下げられた縄はしごをつたってエメラルドブルーの中へ進んでいく。
ゆっくりと吐き、ゆっくりと吸う。またゆっくりと吐き、ゆっくりと吸う。とにかくゆっくりと。それをひたすらに意識し、先に潜っていった澤村さんの隣に立った。
何気なく海面に視線を送れば、太陽と波が良い具合に反射してきらきらと海の中が輝いている。息を飲むような世界にいるような、そんな感覚に涙が出そうになる。
新しいことをするとき、どうしても恐怖心のようなものが生まれるけれど、それを乗り越えればやってくるのがこんな綺麗な世界やわくわくするようなものかもしれないなら、貪欲に生きてみたいと思った。
でも今回は、澤村さんがいてくれたから。だからこの景色をみれたのだ。
隣を見れば、同じように固まる澤村さんがいて、私はまた海の中を見渡した。有名なアニメ映画で見たような世界だ。カラフルな魚は群れをなして優雅に私たちの前を横切り、遠くには亀の親子の影のようなものが見える。
ウエットスーツ越しにも冷たい海中。3メートルほどの海底に敷かれた砂の上を歩くと、大きなワカメがゆらゆら揺れて、大きな岩影には何かが隠れていたけど、姿ははっきりと見えない。
先頭をいくお兄さんが立ち止まり、唯一の会話のツールといえる磁気を利用した小さなお絵描きボードに文字を書き始める。
『イソギンチャク、さわらないでね』
澤村さんと私は指でオッケーを作って返事をすると、それを消して次の文字を書く。酸素ボンベがスースーと音をたて、海面に向かってぶくぶくと泡がたつのはまた幻想的だった。
『のぞいてみて』
目の前のイソギンチャクの中に目を凝らすと、オレンジに黒と白のラインが何本も入った、例の映画で有名となったカクレクマノミが顔を出している。か、かわいい……!あまりの可愛さにじっとその姿を見て、写真を撮ろうかしばらく悩んでやめた。びっくりさせてしまっては可哀想だ。
ペットショップで見たことのあるカクレクマノミよりも、水族館で見たことのあるカクレクマノミよりも、彼らは圧倒的に自由で自然だった。目に焼き付けている間に、海中を散歩はすぐに終わりがきたけど、たかが水深3メートル、されど3メートルの海底散歩は一生の思い出になる。
船に上がり、ゴーグルを外すと黒目がちな瞳を輝かせた澤村さんが私を見たから、感動しかしなかった、と呟けば、だな、と一言だけ返されて。お互いに言葉が出ないのはわかっていたと思う。しょっぱい髪の毛も、濡れたウエットスーツに当たる風が意外と冷たいのも、それから島に船が着くまでなにひとつ言えなかったから。
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「温泉ほどあったかくはないですけど、体あっために温水プール行きましょう」
促されるままに記憶に新しい温水プールへ向かうとお兄さんはざぶんとプールへ入り、チャックを下げてウエットスーツの上半身を脱いだ。……え、脱……私の見間違いであってほしかった。
「ほらほら、どうぞ」
いや、だって脱ぐとは思ってないじゃない。せっかくの余韻がふっとびそうになりながら仕方なくプールに入れば、たしかに冷えた体にはちょうど良い温度の温水プールを堪能する。
珍しく戸惑う澤村さんもプールに入ると、ウエットスーツのチャックを下ろして上半身が裸になった、のだけど。触って知っているのと、実際にみるのはまた別物だ。隆々とした筋肉ではないが、その辺の悪者は簡単に押さえ付けられそうな腕に、腹筋。
慌てて視線を外せば、海中で私の後ろを歩いていたお姉さんがチャックを下ろして引き締まった体を披露して。
私だってそんな腹筋だったら速攻で脱ぐけど、ぷにぷにした部分とかだって普通にあるし。ていうか何回も言うけど、脱ぐと思ってなかったし!
「脱いだ方がお湯が当たってあったかいですよ、みょうじさん」
この手の話題にはノーコメントの男性陣は会話を始め、お姉さんの言葉に耳を傾けてから考えた。きっと私が脱いだところで、誰ひとり顔を赤らめるわけじゃないし、お姉さんのようなナイスバディじゃない。誰も見てない、そう、誰も。
チャックを胸の少し下まで下ろすと、ウエットスーツの腕を抜いて、ぴっちりと包まれていた腕が半端ない解放感を感じると心がだらける感覚になる。
「あったか〜、気持ちいい」
「海中も好きだけどこのだらだらする瞬間も好きなんですよね、私」
「それちょっとわかるかもしれないです。癖になる感じ」
お姉さんと私で会話が弾みだしてすぐ、ふと感じた視線のもとを見て、逸れたその表情を見て私はやっぱり恥ずかしくなった。
誰ひとり顔を赤らめるわけじゃない、とは限らない。