へたっぴなスパイク

 海底は暗いものだと、思い込んでいた。あの島でスキューバダイビングをするまで、当たり前のように。正確に言えば、深海の海底は真っ暗なようだけど、私の体験した青の世界は明るく、宝石が散りばめられたようだった。
 それは澤村さんが一緒だったからか、そうでなくても同じ感動を得れたのかはわからないけれど、きっと前者だと私は思う。

 スガくんが合流して、乾杯をしなおした。もう3人で飲むの何回目だっけ。3回目くらいだったかな。でも、私が澤村さんに2人きりで飲もうと誘われたことは今の今まで一度だってないけど、澤村さんの職業柄難しいのかも。なんて自分の中で何度も昇華させてきた。

「そういえばさー、みょうじさんと大地は何回か飲みに行ったりしてんの?」
「あ、こういうの?」
「違う違う、サシでってこと」
「いやそれは、」

 テーブルに頬杖をついて澤村さんに視線を送るスガくんに、高校からの付き合いなだけあるな、なんてこっそりと心の中で思って。煮えきらない言い出しをした澤村さんを黙って見る。

「それは違うだろ。だって、俺とみょうじさんは、」
「……大地とみょうじさんは?」
「……とにかく。もうこの話は終わり」

 ジョッキをテーブルに置いた澤村さんは考えあぐねてからそう返事したけど、これは私の思考では処理しきれない言葉だ。すみません、と店員さんを呼び止めた澤村さんは、追加の注文をしてからトイレに立ってしまった。

 Tシャツ越しでも筋肉がついているのがわかる背中を見送りながら思う。それはない、などとはっきりした言葉ではないけれど、一体何が違うんだろうか。私はそういう対象ではない、ということなんだろうか。澤村さんと私は、何なんだろうか。今日の昼にばったり会ったとき、嬉しそうな顔をしてくれたと思ったけれど。あれはもしかしたら幻覚だったんだろうか。
 なんとも言えない空気が漂う中、きっと私はひどくしかめた面をしているままで口を開くと、あちゃーみたいな顔をしたスガくんを見る。

「スガくん、ありがとう、いつも」
「……なんでそうなった?」
「でもさっきの質問はちょっと、違うと思うわ」
「Aパス出せたと思ったのにな〜」
「ちょっとAパスがわかんないけど。そうだね……ああ、ええパスってこと?」
「いや、うん。ええパスでいいか」
「でもいつもありがとうは本当に思ってるんですよ」
「……みょうじさん、それ何杯目?」

 いつまでもいつまでも、このままでいいと思っているわけじゃない。戻ってきた澤村さんにおかえりと言えば、普通に帰ってきたただいまにちょっと嬉しくなって、スガくんのさっきの質問はすっかり水に流れたようだった。





 ひとりで帰れるよ、というセリフを言うのは3回目だったけれど、今日もそれを言って。定型文か、と自分につっこみを入れたのは心の中だけに留めた。

 スガくんは明日はあいさつ運動の当番らしく、ごめんなーなんて言って帰ってしまったけれど。よく考えたら澤村さんだけに送ってもらうのは今回が初めてだった。いつもスガくんも一緒だったから。
 虫の声がどこからか聞こえて、外灯に導かれるように足を進める。蒸し暑い空気が落ち着いてきた夜は涼しい風が吹いて、ブラウスと体の間さえうまく通り抜けていく。

「涼しいね」
「な、良い風」
「ずっと思ってたんだけど。 スガくんと澤村さん、本当仲良いよね」
「あーそうね、改めて言われると照れるけど」
「島でのことも、なんでも知ってそうだなぁ。スガくん」
「さすがに、なんでもではないよ」
「……いいな、仲良いの。羨ましい」

 澤村さんと2人で歩くと、夏の夜風は島で感じた風に似ているような気がした。名前の知らない魚を食べた帰りでもなく、最後の夜の風に。
 何も声を発しない澤村さんの方をちらっと見れば、私を見て納得いかないような表情をしていて。私、変なこと言ったかな。なんて思った。

「羨ましいって、どっちが?」
「……あー、」
「いや、悪い。こっちが」
「……私、なんでそんなこと言ったんだろ」

 ぜんぶ。ぜんぶ、ぜんぶ。数分前からやりなおせたらいいのに。涼しかった風が生ぬるく感じて、消えない言葉が澤村さんの中に入っていったことをじりじりと理解しはじめる。もう、進むしかないのだ。

「じゃあ問題」
「えっ」
「私はどうして仙台勤務になったんでしょう」
「それは、」

 女とは本当に面倒な生き物だと、私自身も思う。たとえばこの恋が終わってしまっても、いつか新しい恋をするのかもしれないけれど、一生忘れられない恋になるのは間違いない。

 もしもこれが最後になるのなら。困らせて、惑わせて、少しでも私を覚えてほしいと思う。わがままで、面倒な女だと思われてもいいから。