ハグ ≠ 抱きしめる

 困ったように頭の後ろに当てられた手が大きいことを、私は知っている。がっしりとした腹筋も、何もかも。澤村さんに関して、私が知らないと自覚しているものはひとつだけ。それは、心の中にある澤村さんの気持ちだ。

 止まった足が動かない。きっと動かそうと思えば動くはずなのに。何かに止められるようにぴたりと地面から離れなくて、面倒くさい女もなかなか大変だなんて思う。

「……その言い方は、偶然じゃなさそうだなぁ」
「そっか。澤村さんには言ってなかったんだっけ」
「ふーん……スガは知ってんだ?」
「あの時酔っぱらってたからなぁ、スガくん」

 一度緩んだ空気がきゅっとしまって、正直戸惑う。なんでそんな顔するの。なんで、そんな目で私を見てくれるの。ポケットに入ってしまったその手を追って、睫毛を伏せれば、外灯に照らされるコンクリートが視界に入る。

「俺の知らない間にすっかりスガと仲良くなっちゃって」

 伏せたばかりの視線を上げれば心まで見透かされているような視線が私に向けられていて。それが魔法を解かす呪文のように地面にはりついた足をすうっと離れさせる。

「これは俺のわがままだけど、」

 たとえばこのまま、ゆっくりと時間が過ぎて。元からどちらも何も言っていなかったような、何もなかったかのような顔をすることもできるのかもしれない。この先に来る言葉が何であろうと、私たちは大人だから。時を戻さなくたって、自分たちであれはなかったことだと押し込めることだって、難解なことじゃない。でも、それじゃだめだって、そう思ってしまう。

「その理由が俺だったらいいなって思う」
「……」
「1年ぶりに会ったとき、思ったんだ。あー俺、みょうじさんのことが好きなんだって」

 きっと今日の空は深海の海底よりも明るく、3メートルの海底よりも暗い。相づちすら打てない私はただただ固まって、しんとした中に届く声に集中して。その言葉の意味を理解するのは簡単なのに、これが夢なんじゃないかと疑う自分もいる。

「でもさ、俺の先輩とか上司とか見てきて思い知っちゃったんだよな。一番近くで守ってあげたいと思える人が出来ても、大事なときに駆けつけてあげられないかもしれない。世間一般の普通みたいに、思う存分そばにいてあげることもできない。旅行だってそう簡単にできない。きっと我慢ばっかりさせるんだろうなって」

 もしかしたら、2人で会うということをしなかったのは、澤村さんなりの線引きだったのかもしれない。澤村さんは私を見下ろして、悲しそうに笑った。心臓がぎゅうっと押し潰されてしまいそうなくらい、悲しそうに。

「きっとみょうじさんのことを俺よりも幸せにして楽しませてあげられる奴がいると思う。でも、それでも俺はみょうじさんがよくてさ……どんだけわがままなんだよな、俺」

 イエスかノーか。それを出す直前の一言が出てこないのは、澤村さんが心の中で足踏みをしていた理由からなのかもしれないけれど。それでも、これ以上の告白はきっとないと、そう思った。
 眉を下げて笑う澤村さんは私を困らせないようにしてくれているんだろうか。細まった隙間から見える黒目が深く黒く見えただけで、こんなにも苦しいというのに。

「……じゃあ、私はもっとわがままだよ」
「え?」
「私は澤村さんよりも先に澤村さんのことが好きになって、澤村さんに会いたくて仙台勤務を志願したから。あの夢みたいな空間じゃなくて、現実味のある場所で澤村さんと恋がしてみたかった」

 この1年いろんなことがあったけど、それでも澤村さんのことを何回も思い出した。もう1回会って、自分の気持ちを確かめたかった。
力強い黒目が一回り大きくなって、くしゃりと自分の頭を触った澤村さんは、困ったように笑って前を向く。

「俺も。出来ることならみょうじさんにもう1回会いたいって思った。こっちに帰ってきて、あの映画も何回か観たんだ。それでいつもみょうじさんのこと思い出して、でももうきっと会えないって思ってた。だって普通に考えれば、あの場所だけでの出来事だと思うだろ」

 もしも澤村さんの求めるものが私と約束を交わすものではなかったとしても、それでも良いような気がした。この時間、この会話がもたらすものは、決して悪いことではない。

「澤村さん、」
「ん?」
「私ね、待つのは得意なんだ。だって、1年も会ってない相手を思えてたくらいだよ」
「……みょうじさんは、俺に甘いよ」

 じゃあ、と澤村さんに呟けば、私の言おうとした言葉を先読みした澤村さんの手が慌てたようにぱっと私の口を塞いで、すぐに離れる。
 目の前にある澤村さんの表情は優しく、少し緊張しているようにも見えた。あー、と顎を触り数秒だけ戸惑ってから私に真っ直ぐな視線を送られれば、心臓がバクバクと音を立てた。

「俺と、付き合ってください」

 頷いて、こらえるようにぎゅっと目を瞑った。泣きそうなほど誰かを好きになったのなんて、何年ぶりかな。

「澤村さん。ハグ、してください」

 手を伸ばして、勝手に準備をした。普通こういうとき、手を縮こめてじっと待つのが乙女なのだけど、あいにく私は乙女ではないみたいだ。

「……俺、警察官なんだけどなぁ」
「そのセリフ、なんか聞いたことあるかも」

 しゅるりとつるのように視線が絡んで、くすくすと笑って。澤村さんが私に近付くと、澤村さんと私は1年ぶりにハグをした。大きな手も、力強い体も、懐かしいと思うと思ったのに、1年前のハグよりもあたたかく、心が近くにあるように感じた。

「ひとつだけいい?」
「それって、今じゃなきゃだめ?」
「だめ」

 惜しむようにほんの少しだけ体を離し、顔を上げる。諭すような瞳を向けられれば、思わず笑って。なに、と呟く。

「重要だから訂正するけど、これはハグじゃなくて抱き締める、ね」

 言われてみればたしかに重要なのかもしれない。あの晩の私は、紙一重の行動をハグだと言い張ったというのに、今日はどうだ。

「じゃあ、もう1回。改めて」

 優しくて、芯のある声が響く。体を沿うように手が滑って。しっかりと背中にまわって。包まれてからぎゅうっと力が入ると、少しだけ苦しくてひどく幸せだと思った。