肴になる魚たち

 刷り込むように聞いた映画のサントラが頭の中で流れる。マンドリンのとろりとした音色。景色はぴったり、その通りのものだった。撮った写真を見返して海を眺めていると、せっかくの雰囲気を壊すように私のお腹が鳴った。

 よく考えたらお昼を抜いていることに気づいたけれど、今はもう夕方の5時。少し早いけれど、せっかくの旅行だ。どこかに飲みに行こう。ちびちびお酒を飲んで、聞いたことない名前の魚の煮付けをつまみにするのも良い。せっかく貯めたお金をこの島で使わない手はない。

 テーブルに置きっぱなしにしていたマップを広げると、一応この島では繁華街と言うべき一本の道に連なる6軒ほどの店を見る。この辺は明日行こうと思っていたから、別のところに行っても良いかもしれない。

 隅から隅までマップを眺めていると、ホテルの近くに小さな居酒屋があるらしいことに気づく。あまり開きたくなかったけれど、スマホを取り出してそのお店を検索すると、去年にできたという島ではわりと新しいお店のようで、なんとなくそこに行ってみることにした。
 口コミには『席が少ないからふらっと行っても入れないことが多い』とも書いてあったし、そこが駄目なら繁華街へ足を伸ばせばいいとのんびりと考えて。

 部屋を出て星の砂のキーホルダーのついた鍵を閉めると、スカートがひらひらとなびいた。薄手のパーカーがちょうどいいのは、潮風が体を纏っているからだと思う。

 そのお店はホテルから歩いて5分ほどの場所。昔ながらというよりは小綺麗な町の食堂的な雰囲気だ。木の戸を開けると、オレンジの明かりが暖かくて、席は4人掛けのテーブル席が3つほどだけ。
 カウンターはなくて、あの口コミがまったくその通りだったと頭の中で浮かべたものの、テーブルは3つとも埋まっていて、ひと足遅かったか、と少しだけがっかりしてしまった。

「いらっしゃい、すみません今満席で」
「大丈夫です、また明日出直します」

 申し訳なさそうにするわけでもなく、柔らかい雰囲気で断りを入れた店員さんは感じのいいお兄さんだ。すごく申し訳なさそうにされるといつもなんとなくつられてしまうから、これくらいが私はちょうどいいかもしれないなんて思った。やっぱりこの島の人はみんな暖かいような気がする。
 また明日出直そう、そう思いながら仲間で賑わうひとつ目のテーブルを見て、家族で団らんをするふたつ目のテーブルを見て、みっつ目のテーブルにはメニューを熟読して何を頼むか考えている男性がいた。
 店員さんと交わす会話に反応したのか、こちらを見て驚いたような表情で静かに声を出した。

「あ、」
「……こんばんは」
「こんばんは」

 そう、澤村さんがみっつ目のテーブルで何を注文するか迷っている最中だった。爪先はもう外を向いていたものの、澤村さんと私が挨拶を交わしたのを見た店員さんが「なんだ、知り合い?」と安心したように言い、澤村さんも私も、うーん、と少し考えているうちに戸が閉められてしまった。
 知り合い……?いや、顔見知り……?私は澤村さんを澤村さんと知っているけど、澤村さんは私の名前を知らないし、ホテルが同じ人です……?説明し難い不思議な関係性を言葉にできないでいると、澤村さんのテーブルの向かいに水が置かれ、どうぞ、と店員さんが私に声をかけた。

「えっと、」

 なんと言えばいいのか言葉を探りながら、気づくと私は澤村さんの斜め向かいに腰を下ろしていて、自分のちゃっかりな行動に頭の上にクエスチョンマークを3つくらい並べた。

「すみません、なんか気づいたら勝手に座ってました」
「……」
「……」
「くっ……あはは!俺は大丈夫ですよ、そんな顔しなくても」

 澤村さんにしたって、名前も知らない一緒にバスと船に乗っただけの女が相席なんて嫌だろうと思っていると、澤村さんは豪快に笑い、なんだかとっても楽しそうな表情でそう言ってくれて、正直ほっとしてしまった。見ていたメニューを私に向け、澤村さんは付け加えるように言う。

「このお店、あら汁がおすすめらしいですよ」
「あら汁?」
「そう、ここ」

 ごつごつした指に、清潔感を増殖させるように短く切られた爪が私の持っているメニューを指差して、不覚にもちょっとドキドキしてしまった。

「……あ、そういえば」
「はい」
「私、みょうじっていいます」

 そういえば名前を知られていないままだったことに気づき、言いづらくなる前にと早々に告げると、そうだった、みたいな顔をした澤村さんとくすくすと笑い合った。

「澤村です。よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」

 心の中で、知ってます、と呟く。ちょっとだけ、お見合いみたいだと思ったけれど、それこそ雰囲気がお見合いには相応しくなくて、軽いお辞儀をし、メニューに視線を落とした。
 お酒を飲むつもりだったけど、相席で自由にするのもどうなんだろう。澤村さんは普通にご飯を食べるだけかもしれないし。そう思いながら手書きのメニューを眺めていると、魚料理の中に発見したものを思わず口に出した。

「……あった。知らない名前の魚の煮付け」