綴じれぬ夜明け
晴れて無職。ごきげんよう宮城。今日もお手柔らかによろしく。そんなわけで、心は軽やかである。
宮城の祖母の家に転がり込んだ私は、家事手伝いなんて可愛いげのある肩書きもつけず、祖母が快く貸してくれた部屋のタンスに荷物をしまい終えたのは数日前のことだった。
お給料がそれなりに良かった仕事は迷いなく辞めた。職場に対して大きな不満はなかったけれど、ちりつも的なものはなくもなかった、かな。まぁ貯金はそこそこあったし、ふと祖母とふたりで暮らしてみたくなった。ただそれだけだった。
人生は常にハッピーであれ。そう思いながら過ごしていたら、あっという間にそこそこ大人になっていた。
生きるのにお金は必要だけど、沢山ある必要はない。高いお金を使った贅沢よりも、どう過ごすかの方が重要だった。
男だから、女だから。そんなことを言うのはあまり好きでないけれど、仕事をスパッとやめれた部分はそれでも『女だから』という気持ちはかなり大きかったと思うし、自由がきくということは人よりもめぐまれているのかもしれない。
▼
風が吹けば、痛いほどに寒い。ここまでよく冷えた外は私にとっては未だ新鮮だった。宮城に来てから何度かふらりと来ているおすわりという居酒屋の居心地の良さはどこにも負けない。踵を翻したくなる程の寒さにさえも。
「おばちゃん、ビールのおかわりお願いします!」
「はいはい」
おばちゃんは目尻に皺を寄せ、穏やかに笑う。どこか懐かしいような味付けの料理はどれも美味しくて、お酒は進む。ビールを流しながらぐびぐびと喉を鳴らすのはすごく気持ちが良い。ああ、幸せ。
「こんばんは〜」
「おばちゃんビール3つ〜!」
元気な声が店内に響き、カウンターの中にいるおばちゃんがビールを注ぎ始めた。開いた引き戸からぞろぞろと入ってきた3人組は恐らく馴染み客。遭遇するのは2回目だった。
ジョッキのふちに口をつければ下ろしたら邪魔そうな髪をカチューシャで留めている人と目が合い、ばちっと音がしたような気がした。
適当な空いたテーブルで始まった会話は、決して広くない店内によく響いている。たっつぁん、嶋田、繋心。呼び方が名字だったり名前だったりあだ名だったり、ばらつきがあるのがなんとも面白くて会話を聞いている間に3杯目のビールはすっかり空っぽだ。
「どーよ、烏野バレー部は」
「いや、どうってまだ春高も終わったばっかで新体制整えるのに精一杯だからな」
「店番とコーチと?あと町内会のバレーもか。相変わらず忙しくしてるよな、繋心」
ふーん、繋心さんはバレーボールのコーチやってるんだ。確かあのメガネの人は嶋田さんだっけ。んであっちがたっつぁんさん。あ、あのカチューシャの人が繋心さんか。それより私、話聞きすぎか。
「なぁなぁ、おばちゃん」
「ん?」
「あの子、飲みすぎじゃねぇ?俺ら来てから何杯目だ…?」
ひそひそとした会話が始まっても、それは微かに耳に入る。なんなら相手がおばちゃんなのだから、ひそひそと話すのは至難の技である。多分彼らは私が酔いつぶれるのを心配してくれてるんだろうけど、人生で酔いつぶれてお持ち帰りにあったことなど一度もないほどお酒には強いので心配ご無用である。
「めんこい顔して結構飲むんだよ、あのお客さん」
そう。よくわかってるね、おばちゃん。宮城に来るまではあまり活躍していなかったムートンブーツとダウンジャケットに袖を通し、呼吸の度に白い息を吐きながらここに何度か来た甲斐があったものだ。目が合ったおばちゃんは私を見て「ね」なんて返事を求めるものだから、私もなんの躊躇いもなく頷いた。
「え、と……折角だしこっち混ざる?」
そう誘ってくれたのは繋心さんだった。遠慮するのが流れとして正しいのだろうけど、ぎくりと身構えたたっつぁんさんと嶋田さんをよそに空いていた繋心さんの隣にこれっぽっちの遠慮もなく座った。ビールと、おつまみを持って。
「お言葉に甘えて」
「……マジで混ざるとは」
お手本みたいな呆れ顔をした繋心さんににんまりと笑うと、さっきまで戸惑いまくっていた嶋田さんとたっつぁんさんが私と繋心さんの顔を繰り返し見てお腹を抱えて笑い出す。かなり勘が良い自覚はあったけれど、このテーブルは間違いなく入って正解だったと思う。私だって人類みな兄弟なんて思っているわけじゃない。女の自覚はちゃんとあるし。
:
:
堅苦しい呼び方も、お酒が進むほどにぐらぐらと崩れるように砕けたものに変わった。繋心くんと嶋田くんとたっつぁんは地元で店をやっていて、みんな同級生らしい。そして、すっかりため口が板についてしまったからどうでもいいことにしたものの、私の方が3人よりもいくつか年下だった。
「私一昨日行ったよ、嶋田マート」
「マジ?」
「うん。昨日しゃぶしゃぶした〜めっちゃ美味しかったよ!」
「そうだろー!?なまえちゃん、たっつぁんと繋心とこは行ったことある?」
「まだないや。でもたっつぁんとこ用事ないよ、電球も変えられるしおばあちゃんちの家電壊れてないし」
「最近の家電は性能もいいしよく持つからなぁ」
「繋心くんとこは行っても繋心くんいるかわからないんでしょ?」
「俺?いや、昼間は基本店番してる」
「よかった。繋心くんいなきゃ肉まん奢ってもらえないもんね」
「……お前、えらく自由だな」
もうすっかり打ち解けて、だらだらとした心地よい空気が流れる。遠慮していたらしいたばこも一声かけただけで繋心くんの少しとがった口に咥えられ、先を赤くしてぷかぷかと煙が舞う。テーブルにたまったジョッキが楽しかったことを物語り、みんなで連絡先を交換して店を出るまではあっという間だった。
「なまえちゃん、家まで送ろうか?」
「優しいねー嶋田くん。紳士ー、でもへーき」
「あのさー、一意見として?この3人だったら誰に送られたい?」
たっつぁんが自分を含めたメンズ3人を順々に指差し、私は考えた。というか、こう時々垣間見える若いノリは嫌いじゃない、なんて思いながら。
そうだなぁ、送ってもらうなら楽しい方がいい。それに 変な人がきても追っ払ってくれて、心地が良い人が良い。
1番話しやすくて、1番守ってくれそうで、1番しっくりくる、のは。
「繋心くんかな〜」
目線の先の繋心くんの顔は心なしか赤かった。髪をあげているせいでまったくその顔は隠れていなくて、私はその表情を見ながら後ずさりをして口を開いた。
「でもほんとにすぐそこだから。みんなも気を付けて帰ってね。転ばないよーに」
くるりと背中を向け、首だけ振り返ってポケットに入れていない方の手を振った。マフラーに埋めた口元をにんまりとさせながら。ああ楽しかった。早速飲み友達ができちゃった。
:
:
「たしかに繋心だけ名前呼びだったもんなぁ」
「たっつぁん好きじゃん、なまえちゃんみたいな子」
「あーもー!うるせぇ!てか繋心浮かれた顔すんなよ」
「してねーよ!」
所詮男は男なのだ。女と男は違う生き物なのだ。つまり、なまえが思うほど彼らは純じゃなく、彼らが思うほど彼女も純ではなかった。