ひとつの雫が海になる
風の赴くままに、どこからともなく現れていつだか消えていく。私は繋心くんに風来坊のような人間だと思われていたのかもしれない。
何かを得るときに何かを失ったり何も失わなかったり。そういうことに囚われることだって、もちろん私にだって無きにしもあらずなのだ。
「結局さ、なまえちゃんとのきっかけは見合いだったんだろ。てことはいずれは、そういうことだよな?」
「……多分な」
「なんだよ!もっと嬉しそうに言えよ!」
「ただいまー」
「あ、おかえりー」
「丸聞こえだったから言うけど、私もそういうことだと思ってるよ」
今日もおすわりでだらだら飲み。相変わらず心地が良いのは、宮城に来たばかりの時と全く変わっていない。繋心くんが咥えるタバコの先端を眺めながら思い返す。
いつか繋心くんが私に飽きてフラれたらリゾートへ行ってバイトでもしようとかそんなことを考えていたのは最初の頃だけで、繋心くんがいるということはとても心強くて必要なことだった。つまり、ここにずっといたいということだ。
結婚をするとか、子供ができるとか、ふたりで住むとか、めんどくさい手続きをすることとか。あげればキリがない環境の変化によって起こりうる色んなことを考えては、ため息をついたのは私と繋心くんのふたりの秘密だったりする。
「なまえちゃんにウチやめられたら困るから、俺としては意思を固めてくれるのはありがたい。あと、純粋にめでたい」
「そこまで言うなら時給あげてくれてもいいんですよ、店長」
「ん?どの店長に言ってる?」
「別に嶋田マートやめて店番してくれてもいいけど」
「では私は結婚資金のために一番時給が高いところへ行くことにしようかな」
「なんかモテてるみたいだななまえちゃん」
「あはは、働き手としてね」
嶋田くんは最初に思っていたよりも面白い人で、たっつぁんは状況に応じて聞き手に回ってくれる優しい人で、繋心くんは繋心くんのままだった。
おりた髪が長いこととか、時々甘えん坊なこととか、言動と行動がちぐはぐな時があることとか、ぶっきらぼうに見えて礼儀正しいこととか。
今はのろけになってしまいそうで言わないけれど、新しく知ったことはたくさんあった。
付き合いが続けば続くほど周囲からの期待の眼差しははっきりしたものになっていったけれど、繋心くんと私の関係はずっと変わらなかった。
すぐに仲直りできるような小さな喧嘩だって何度かしたし、好みが違うことだってもちろんあった。そんなの当たり前だ、全く喧嘩しないカップルなんてそうそういない。
だけど、普通でないことがある。
バイト帰りに嶋田くんに愚痴を言えば繋心くんに筒抜けだし、繋心くんが難しい顔をしていればたっつぁんがこっそり私にラインをくれた。本当にいい関係で、いい環境だと思う。
大切な人と、共通の友達と、大切な家族と、毎日帰れる家と、暮らせるだけのお金があれば、すっごく幸せだ。充分よりももっと幸せだ。
「結婚したら何が変わるのかな。今よりももっと最高だと思える毎日になれるのかな」
「あらら、急に壮大なこと言い出した」
「こういうとこあるんだよこいつ」
「俺は彼女がいたら結婚したいと思うわ、多分」
「はいたっつぁん、それはなぜ」
びしっとした視線をたっつぁんに送ると、ジョッキをテーブルに置いた手をそのままに、指折り数えながら楽しそうな面持ちで発表し始めた。
「まず嫁って響きがいい。あと家に帰ったら毎日会える。それに苗字が変わるだいぶ違うと思う、だって人に電話してるときとか『滝ノ上です』って名乗るんだろやばいよな」
嫁……奥さん……繋心くんなら嫁って言うんだろうな、きっと。帰る家が同じってことは、私と繋心くんの家族しか知らないノーカチューシャでたばこを吸う姿が毎日見れる……それはたしかに毎日ハッピーだろう。
「……ちょっとわかる。烏養ですって言いたいかも。だって烏養ってかっこよくない?」
「悔しいけど思う」
「同じく」
「……別にちょっと珍しいくらいだろ」
「まさか繋心くん、烏養慣れしすぎてるんじゃ……珍しいから言いたいんじゃないよ、かっこいいから言いたいんだよ」
「俺と同じ名字になりたいからとかじゃないとこがなまえらしいけど」
私はきっと、男の人が理想に思うような女ではない。例えば料理上手で気が利いたり、にこやかに話を聞いて要領が良かったり。
その自覚はあるけれど、自分のことは好きだし、自分を肯定して生きていきたいと思う。そしてぼんやりと、私は自分にも甘く、他人にも甘いタイプなのかもしれないと思った。
▽
嶋田くんとたっつぁんと別れ、祖母の家までの短い距離を繋心くんと歩く。手がぶつかって、何気なく繋いで、少ない外灯に時々照らされて。
はぁ、と白い息を吐いてから繋心くんを見れば、もう片方の手で頭をぽんぽんと触って離れていく。
「次は春高かぁ」
「だな。忙しくなる」
「そうだね」
「……」
「落ち着いたら構ってね」
「……どうせうちにしょっちゅう泊まりくるだろ」
「そうだけど」
「そもそも俺は言われなくても構うつもりだったよ」
なんとなく、さっきまでみんなで盛り上がっていた話題には触れなかった。繋心くんも、私も。タイミングはいつでもよかったけれど、いつでもいいというのは逆に困りものなのかもしれない。
冬がきて、春がきたら繋心くんは忙しくなって、こうやって気軽に飲んだりするのも難しくなって、あっという間に冬が来る。私たちがどんな風であれ、関係なく。
「……正直なとこ。インハイの時とか。暇だったろ」
「そうだねー、出会った時期は落ち着いてたもんね。それに比べたら、暇だったかな」
「……」
「でもお母さんは可愛がってくれるし、おばあちゃんといる時間もたくさん出来たし、なんやかんやで繋心くんの幼馴染みズが構ってくれたし、暇ではなかったよ」
「あ〜〜……」
「どーしたの」
「なーんか……それはそれで複雑だけど」
うっすらと表情を歪め、着いてしまった家の前で手を繋いだまま固まると、とくとくと穏やかに心臓を鳴らしながら納得いかないような繋心くんを眺めた。
「あのね。繋心くんが思っているより、何倍……いや何十倍も繋心くんはいい彼氏だよ。それにきっと、いい旦那にもなるよ。私が保証する」
私の言葉を聞ききって、笑いながら繋心くんは言った。お前が保証してどうすんだ、って、楽しそうに。