密かな爪先ピンクのネイル


 30を過ぎて、明確な理由がなくなった。見合いを断る理由が。ついにお節介なおばさんに根負けしたのは『絶対気が合うと思うのよ』という今までにないほどのごり押しと、『お見合いじゃなくて、お茶会だから』というラフな見合いのスタイルがあまりに可笑しかったからだ。

「こちら、みょうじなまえさん」
「……あはは、どうも〜」

 おどけるように会釈をしたなまえは堪えきれずに目を細めて笑った。ていうかやっと名字知ったな。みょうじ……あ、もしかしておばさんが時々言ってる独り暮らしのばーちゃんの孫か。地球はすげーでかいのに、世界の狭さにたまにびっくりする。

「で、こちらが烏養繋心さん」
「繋心くんって……烏養さんていうの?なにそのかっこいい名字。羨ましい」

 こたつでみかん。近所のおばさんと、俺となまえ。母ちゃんは用事があるから後から来るとか来ないとか。やっぱりなまえは呑気で、その発言がどうとでもとれることを本人は気づいていなかった。思わず口元を手で覆えば、おばさんの目がギラギラ光り、俺は慌ててこっそり自分の太ももをつねった。

「綺麗にみかん剥くのね〜」
「白い繊維は綺麗に取りたい派なんだ」
「でも昔から言わない?この白い繊維に栄養があるとか」
「あ、リンゴの皮のキワキワのとこみたいな?」
「そうそう」

 先に言わせてくれ。これは見合いでもなくお茶会でもなく座談会だ。話半分、みかんの繊維半分。なまえの自由っぷりはなかなかのものだと思う。タイミングを見計らったように仲人役のおばさんから興味津々の質問が飛び始め、ようやくそこで俺も身構えた。

「ところで、2人知り合いだったのね」
「おすわりで偶然ね。一緒に飲んだのは2回くらい?そうだよね、繋心くん」
「お、おう」
「連絡先の交換は?」
「してるの?繋心くん」
「おま、……一応」

 多分、おばさんと同じくらいなまえは見合いを楽しんでいる。相手が嶋田でもたっつぁんでもこの調子なのかもしれないが、俺に対してが一番自由なのはなんとなく感じていた。

 そもそもこの場に来てるってことは、結婚願望があるんだろうか。今のところ知る性格上、堅苦しいお見合いを嫌いそうなタイプないのは間違いない。それにしたっておばさん相手にこのちょっとお茶会スタイルに落ち着かせたなまえはすごすぎるが。

「でも意外だった」
「意外?何が?」
「てっきり繋心くんは結婚願望とかないタイプかと思ってた」
「それ、そっくりそのままお前に返す」

 おばさんがお茶のおかわりを淹れに立ってすぐ、なまえはそんな話を始めた。
 おすわりでなんとなく聞いただけだが仕事を辞めて都会から田舎に来て、こうしてのんびり過ごしている奴に結婚願望があるとは思えない。

「そうか、私も意外かぁ。いい人がいればあっさりするんじゃないかな。こっちで結婚したらおばあちゃん喜ぶもん」
「お前の思ういい人って、たとえば?普通は高給取りとか学歴とか重視するんだろ?」
「学歴〜?気にしたことないかな。それにお金も……別に?それより気が合うかどうかじゃない?相手が富豪でもそうじゃなくても、私は別に贅沢したいとも思わないし。働きたければ働くし……ま、宝くじが当たったら絶対大喜びするけど。最近買った?宝くじ」
「……いや」
「私も。300円が7億円に変わるって思うと、夢あるよね、今度買おうかな」

 わかるところ。わからないところ。すぐにどうでもいい話をするところ。きっとこいつはウジウジ悩んだりしないんだろうな。 楽観的な性格がこの生き方を許してんだな、きっと。

「漠然と結婚したいな〜って思ったことない?」
「まぁ、ないこともない」
「私もそんな感じ。それに結婚したくないと思ったことは一度もないかもなぁ」

 頬杖をついたなまえの指先の爪は、ちょっと艶々して、薄いピンクに色がついていた。遠くを見据えるような瞳に、ふと思ってしまった。こいつには人に左右されずにこれからもこのまま居るんだろうし、そうであってほしいと。

「繋心くん、どした」
「……いや、悪い」

 30代にして初めてした見合いらしくない見合い……いや、見合いではないか。今まで何度も断り続けたのは、面倒臭さと気恥ずかしさと見合いと聞いてなんとなく予想できる性格の相手、この3つだ。もちろん料理はできるに越したことはないが、俺は家庭的な嫁が欲しいんじゃないのかもしれない。

 そっと側で支えてくれるようなタイプの女よりも、こういうタイプの女の方が俺の生活の一部として溶け込む姿が想像がつく。とはいえ、なまえを嫁にするというのはさすがに突飛な話だが。

「繋心くんこういうのって初めて?終わったら何かしら答えを出すものなのかな?よろしくお願いします〜とか、今回は〜とか」
「それより相手にそれを聞くお前に驚きだよ」
「相手が繋心くんだから聞いてるの。ていうかこれってお見合いって思っていいのかなー……いいや、おばちゃんに聞いてこよ」

 こたつを出たなまえは、お茶を淹れるといいつつ全く戻ってこないおばさんのいる台所を覗く。柱に寄り掛かり、片足の指先をちょこんと床につけるその後ろ姿を頬杖をついて見るのはなんでかあまりに自然な光景に思えた。

「うーん、そうねぇ。とりあえず双方が気に入れば、次はデートかしら?」
「ふーん。デートだって」
「ぶっ!」

 吹き出しそうになった俺の背中を思いの外小さな手が撫で、ようやく現れお盆を置いたおばさんは、いいものでも見たように口に手を当てる。あらあら、まあまあ、と。

「うそうそごめん、ちょっとふざけ過ぎた」

 背中をさする手はぴたりと止まり、ゆるやかな笑顔で俺を覗き込んだその瞳は一回だけ瞬きをした。なに振り回されてんだ、俺。
 眉を下げ、ちょっと呆れ、はぁ、と一回溜め息で返せば、さっきまでのゆるやかな笑顔はいたずらなものに変わった。