死ぬほど甘美な静寂
夕飯をご馳走になり、洗い物を手伝って。持っていったお菓子を一緒に食べて。実家暮らしの恋人の家に堂々と泊まるなんてこの年になってあるとはちょっと前の私は夢にも思わなくて。学生時代でさえこんな経験はないけれど、学生気分だった。
「なまえちゃん、もうすぐお風呂沸くから準備しておいで」
「ありがとうございます」
「とりあえず上行くか」
軋む階段をのぼり、繋心くんとたばこの匂いのする部屋に入る。布団とタンスと思い出の写真が何枚か。簡単なものしかないけれど、散らかっているわけでも整頓されているわけでもなくて、生活の空気が各所に漂っている感じがする。ちょっとだけ黒目が揺れて、焦がすような思いがふつふつと現れる。
「お前は隣の部屋で寝ていいって」
「ありがと」
ゴミ箱に入るか入らないか。勢いで始めたお付き合いは意外にも続いていたが、当人である私たちにとってはさほど意外ではないものになっていた。
夜道をふらりと歩けば、手を繋ぐし、不意に目が合うことだってある。ちゃんと恋人なのだ。
なんでもいいよ、なんて適当なことを言って借りた繋心くんの部屋着を抱え、窓際でたばこを吸いはじめた繋心くんの隣に座った。
「繋心くんのお爺さん、かっこいい人だね」
「そんなん聞いたらあのジジイ調子乗るから言うなよ」
「お?嫉妬してる?」
「ちげぇわ」
おどけたように笑って、視線を合わせて、数秒固まった。お爺さんに進められるがままにお酒を飲んで、とっても気分が良いんだよね。現在進行形で。
「なんか、」
「ん?」
「ちゅーの雰囲気かな、いま」
「……お前のこと奥手じゃないとは思ってたけど」
言葉を発することを躊躇う繋心くんの姿をずーーーーっと見ていたら、その表情はころころ変わっていく。半分冗談で半分本気だったけれど、そのくらいの割合で発した言葉は大抵本気にとられるのを知っていて口にだした自覚は間違いなくあった。
むずむずして、黒目をゆらゆらして、すごく考えて。そして降った繋心くんの唇は、あったかくて、ちょっとぎこちなかった。
「……酒くさ」
「……ふふ、たばこくさ」
「だろうな」
先っぽを赤くするたばこを片手に眉を下げ、可笑しそうに笑う繋心くんを見て、繋心くんを小突きながら私も笑う。初めてのキスはロマンのかけらもないものだったけど、間違いなく幸せだった。
「繋心くん、もういっかい」
「……ん」
灰皿にたばこを置いた繋心くんの手が私の腰を引き寄せ、指先を服の上で這わせた。なにかが始まるわけではなかったけれど、心なしか甘ったるい雰囲気の中、階段の下から「お風呂沸いたわよー!」と聞こえて、数センチの距離をとって離れて。
「風呂沸いたってよ」
「じゃあ入ってこようかな」
▽
一番風呂を頂いて、乾ききっていない髪のままで繋心くんのお母さんとお父さんに声をかけた。
「お風呂お先に頂きました」
「次、繋心だから空いたって伝えてくれる?」
「はーい」
「あ!なまえちゃん待って」
くるりと方向を変えてすぐに呼び止められたものだから、またくるりとそのまま振り返ると、冷凍庫を開けて手招きをするお母さんと目が合い、良くも悪くも自分の察しの良さを痛感してしまった。
汗をかいたカップのアイスを左手、そして小さなスプーンを右手に持ち、るんるん気分で繋心くんの部屋に入ると、私の手元をみた繋心くんが「うまそうなもん持ってきたな」と煙を巻き、短くなったたばこを灰皿に押し付けながらゆるりと口角を上げて可笑しそうに言った。
「遠慮しようと思ったけど手が勝手に選んでてさ」
「ふーん、勝手に?」
「チョコと抹茶もあったよ」
「あ〜でもやっぱ風呂上がりはバニラだな」
「だよね、もう1個あったよ。バニラ。あとお風呂繋心くんの番だって」
「んじゃ入ってくるかな」
俺の分も食うなよ、なんて去り際に言われたものだから、たぶんかわいくない方のむっとした顔をしておどけた表情の繋心くんを見送り、縁にそって溶けはじめたカップアイスにスプーンを入れると早速口に運んだ。……うん、おいしい。やっぱりお風呂上がりはバニラに限る。カップの底が見えるのなんてあっという間だった。
キッチンにごみを捨てに行ったついでにおやすみなさいを言い、洗面台のある脱衣所へ向かう。
「繋心くーん……けーいーしーんー!」
裸の繋心くんとばったり鉢合わせなんて少女漫画みたいなことになっても困るしと脱衣所の扉を開けて名前を呼んだけど、シャワーの音には簡単に勝てっこなくて、1回目より大きな声で名前を呼ぶとシャワーの音が止まった。
「歯磨きしてるから上がっちゃだめだよー!」
「……おー」
歯磨きをする間、妙な緊張感があったのは私だけか、はたまた繋心くんもなのかはわからないけれど、歯ブラシを忙しく動かしても湯船のチャプチャプと揺れる音は耳に入る。バシャッと音がすれば顔を洗ったのかなとかそんなことを想像したら、脱衣所に突撃した分際で変態な自分の一面に気付いてなんだか恥ずかしくなって、歯ブラシを忙しく動かした。
▽
なんだか自分の部屋のように思えてきた繋心くんの部屋に入り、三つ折りになっていた布団を敷く。
ふわっと香った。良い匂い、安心する匂い、ちょっとたばこ臭くて、それが落ち着く。なんだか私はすっかり繋心くんの立派な彼女だなんて思いながら、耐えられずに布団に倒れこんで目を閉じれば、すうっと溶けていくような感覚になった。
美味しいごはんもご馳走になって、お酒も飲んで、一番風呂も頂いて、アイスも食べて、歯磨きもした。あと、繋心くんとキスもした。
今日は完璧で、ハッピーで、最高の一日。閉じた瞼はもう持ち上がらなかった。そもそも持ち上げようとも思っていなかったけれど。