ちぐはぐなキスをして

 小さなローテーブルの上に置かれたままの資料をまとめる花巻さんは、何か飲む?と聞いてくれたけれど、私は首を振った。理由はさつまいもラテでお腹がいっぱいだった、それだけじゃない。
 独り暮らしにはちょうどいい部屋。小さな玄関と、小さなキッチン。小さな植木鉢に入ったパキラは青々として、なんだかかわいい。

「みょうじさん、絆創膏あった?」
「……あったと思ったんですけど」
「俺のあげる。適当に座って」

 ポーチに入っていた絆創膏はいつだか使いきってしまったらしい。それきり忘れていたのかと記憶を手繰り寄せても答えはでなくて、花巻さんの申し出をありがたく受けた。言われた通りにカーペットの上に座ると、絆創膏が差し出されるのを待つ。なのに、絆創膏は差し出されなくて、ぼんやりしているうちに花巻さんは目の前であぐらをかいた。

「ちょい、見せて」

 花巻さんの綺麗な手がロングスカートに隠れた私の足をゆるく立てさせる。静かな視線が注がれる傷口がやけに痛むのだ。そして、じわじわと気付かされていく。好きな人が絆創膏を貼ってくれようとしているということを。

「え、は、花巻さん、大丈夫なんで、自分で貼れるから、」
「だろーね」
「ほんとに、」
「でもこれ俺があげた絆創膏だし……はい、貼れた」

 花巻さんの笑顔を見ると、胸のあたりがすごく痛い。この、至極曖昧な関係。半身浴をしている時にちょっと似ている、温くて居心地のいい関係。そして、はいでもいいえでもない関係。

「ありがとうございます」
「いーえ。少しゆっくりしていきな。まだ痛むだろ……やっぱなんか飲む?」
「あはは、お気遣いなく」

 ほんの少しだけ、喉を詰まらせるような空気が軽くなる。花巻さんは、私がいても平気なんだ。上半身をぐるりとひねってリモコンをテレビに向ける花巻さんを見ながらそんな可愛くないことを思うと、生ぬるい空気に居心地の悪さを覚えてくる。きっと、気持ちの持ちようなのだと思うけれど。
 絆創膏を貼ったら部屋を出るべきだと思っていたのに、花巻さんは違うんだろうか。そんなことを思う私は、意識しすぎなんだろうか。

「みょうじさん、そんな緊張しなくていいから。取って食ったりしないし」

 テレビに向きを変えてゆるく膝をたてた花巻さんは、頬杖をついたままちらっと私に視線を寄越してそう呟くと、テレビに視線を戻す。代わり映えのしないニュースを見ている姿になんだか切ない気分になったけれど、私は気付いてしまった。花巻さんの耳が、ほんの少しだけ赤い。

「花巻さん」
「ん」
「このあと、どこ行きましょうね」
「とりあえず電車乗ってーの、買い物……はいつでもできるし。 映画は?」
「観たいのあるんですか?」

 一番近い映画館の上映スケジュールをチェックする花巻さんはスマホの画面をスクロールし、あれ公開すんの来月か、と呟いた。

「やっぱ買い物かね」
「私、観葉植物ほしいんですよね。あと雑貨も」

 テレビからゲラゲラと笑い声が聞こえて、緊張が解けていくのがわかる。痛みのひいてきた足をさすると、もう耳の赤くない花巻さんに視線を送り、呟く。

「ガジュマルもいいなって思ったけど、パキラも可愛いですね」
「……あー、うん」

 その瞬間、私の声に反応してこちらへ向いていた花巻さんの瞳が泳ぎ、私はぱちぱちと瞬きをした。

「……なんですか急に」
「なんでもない。ほんと、気にしないで」
「逆に気になるんですけど」

 どうでもいいテレビが沈黙を濁す。こんなの、なんでもない空気じゃない。言いづらいようなことなら、追求しなければ良かった、なんて思ったところでもう遅いのだ。

「……それ。元カノがくれたやつだったなーと思って」

 それ、は間違いなくパキラのことだった。ほら、聞かなければよかった。口は災いの元なんて言うけれど、良い例だ。花巻さんと私は付き合っているわけではないのだから、そうなんですね、と一言口にすればそれで良いだけなのに、口に鍵がかかったようにそれすらも言えなくなった。

「ねぇ、なんでそんな顔すんの」
「……」
「もしかして、元カノに妬いてる?」

ごまかすように俯きカーペットを撫でたのに、視界の中に花巻さんの手が入り込み、私の手の隣に並ぶ。じりじりと視線を感じ、顔をあげ、そして気づいた。さっきよりも花巻さん顔が近くにあって、瞳には私がうつっていることに。

「……別に、パキラに罪はないですし」
「でも今、みょうじさんむっとしてたよ」

 ちかちかとカラフルなテレビが後ろでぼんやりうつりながら、そっと手が重なって。花巻さんはゆるやかなカーブをつけて口角をあげた。

「いいじゃん、ガジュマル。俺も欲しい」

こつんとおでこがぶつかり、花巻さんの唇が私の唇に触れるか触れないかのところで止まる。

 恋愛なんて、実際始まったら始まったで案外めんどくさいものだ。自分の気持ちも相手の気持ちを伺うことも。胸の高鳴りを抑えることも。

「俺もガジュマル買う。んでみょうじさんはパキラとガジュマル両方買うの。そしたらお揃い」

 返事をせずにまつげを伏せると、掬い上げるように覗き込まれて。カーペットの上で重なっていた手の指が絡み、静かに唇が重なった。当然のように。今まで何度もしていたみたいに。

「……キス、された」
「……うん。ごめん。つい」

 伏せては持ち上げられる視線が絡まると、くらくらしてしまいそうになるのに耐えるのが精一杯だ。謝ることも、謝られることも今の空気には相応しくないというのに、花巻さんは全然申し訳なさそうになんかしていなかった。

「俺、みょうじさんのこと好きなんだよね、割と最初の方から」
「……え、最初の方から?」
「うん。知らなかった?」

 さっぱりとした視線が絡んだまま、私は頷く。淡々と進む会話は恋とか愛とかそんなことなのに、そんな気がしないくらいに花巻さんは飄々としていた。

「おかしいな。今日は告うつもりなかったのに」
「……私も、もう少し先かと思ってました」
「だよなぁ。でも仕方ないわ、みょうじさんが靴擦れしちゃったんだもん」
「私のせいみたいじゃないですか」
「せい、は違うな。むしろありがとーだな。遅かれ早かれ、告ってたことにはかわりねーもん」

 繋がれた花巻さんの指の腹が私の手を撫でながらそう言うと、口の端を上げて楽しそうに笑った。

「みょうじさんが俺の彼女になってくれたら、すげー嬉しいんだけど」

 指の絡んだ綺麗な手。ゆるゆるとした瞳に、ピンク色の髪。キスをして、手を繋いで、それからの告白。 なんてちぐはぐで、こんなに可笑しいんだろう。

「私も同じ気持ちです」

 口を開いて呟くと、ちゅう、と吸い付くような音が部屋に響いた。うっすらと上がったまぶたから黒目が覗くと、心臓がバクバク音をたて、私の肩に花巻さんのおでこが乗せられた。

「……ヤバい。ブレーキ利かなくなりそー」

 発された花巻さんの言葉は心臓に悪い。同調する余裕もないまま、花巻さんと私のキスは曖昧な関係に終止符を打たれたことを意味していた。
 ブレーキなんてあるんだろうか。だって、大きな手のひらがすでに私の後頭部を包んでいるというのに。