ジャムと指が同じ味

 明かりの少ないフロアを歩き、ネットを外す他店のスタッフさんに挨拶をして、開店準備を始める。上着を脱ぐ前にパソコンを起動して、レジ金を入れて。その間に棚にかけているカバーを外して畳むと、空いているスペースを見ながら思い出した。今日は新商品多いんだった、って。

 通路に置かれた3箱の段ボールをレジ横まで運び、掃除機をかけ、お花の水を変えて。その間、ずっと考えてしまうのは花巻さんの掌や唇の感触と、言葉にできないあの空気と、花巻さんの子どもみたいなくせに余裕のある矛盾まみれの笑顔だった。
 新商品は沢山あるし、いつもよりも忙しくなりそうなのもあってか、ちょっとだけわくわくする。秋に入ってしまえばクリスマスは目前のようなもの。まさにイベント尽くしだ。元旦のセールのことだけはあまり考えたくないけれど。
 今日はどこかで花巻さんに会えるだろうか。フロアのどこかか、休憩中か、エレベーターか。遅番だって言っていたから休憩がかぶることは無さそうだし、そうなればやっぱり偶然何かのタイミングが重なるしかないんだろう。
 マウスを動かしてパソコンで出勤を押して右下の時間を見るとすでに数分進んでいて、浮かれてる自分に思わず笑ってしまいそうになった。





「あ、乗りまーす」
「……あ、」
「……はよ」

 ばくばく、心臓が波うつように動く。ドアが締まる寸前でエレベーターに乗り込んで来た花巻さんは奥に立っている他の階の知らないスタッフさんを意識してかいつもよりも小さい声で挨拶をしてくれたのだけど、あんなに浮かれていた朝の自分が嘘のようだ。流れるような静かな視線がこちらへやってきて、ふよふよと黒目を泳がせながら挨拶を返せば、いやに緊張してしまう。
 たしか、さっき腕時計を見たときの記憶を照らし合わせれば、まだ花巻さんと私は恋人という関係になって1日と少ししか経っていない。つまり、妙にぎこちないのも当たり前だ。うん、そうだ。

「ごみ捨てって遅番の帰りだけじゃなかった?」
「今日納品が多くて。朝から新商品並べてました」
「ほんとだ、紙だらけ」

 くしゃくしゃになった茶色の紙が8割ほど入ったごみ袋を見た花巻さんは、可笑しそうに目を細めたのを視界に納めれば、そのままセットされたピンク色の髪をなんとなく見つめ、すぐに視線を扉に戻してふわふわしたような気持ちになる。
 こんなに幸せぼけな思考になったのは初めてかもしれない。でも仕方がない、恋人がいる、ということよりも、花巻さんが恋人、ということが嬉しくてたまらないんだもの。

「花巻さんは?週報確認ですか?」
「そ。いつもの」

 昼時なこともあってか、時々エレベーターが停止しては数人乗り込んでくる。奥につめて肩を寄せるだけで昨日の記憶が浮かんで、なんだか恥ずかしくなってくるものの、やっぱり嬉しさ、というかラッキーみたいな気持ちの方が勝っているから付き合いたてって何したって幸せだなぁなんて俯きながら思う。

「みょうじさん、1階着いたよ」
「……ほんとだ。じゃあまた」
「うん。じゃーね」

 ただの仲の良いスタッフ同士みたいに挨拶をして、エレベーターが閉まる。
 同じビルの人と付き合うって、こういう感じなんだ。ぱっと遭遇して、話したいことがあったけど。何にも言えなかった。でも、顔が見れたのは嬉しかったな。

 寝ぼけ眼で食パンを焼いたらちょっと焦げたこととか、ジャムをつけすぎたこととか。スティックのカフェオレがいつもよりも妙に美味しかったこととか。ガジュマルをどこに置こうか迷ってるとか。それに、昨日のお礼とか。色々聞いてほしかったなぁ。

 恋人になるってなんか不思議な感じ。どうってことないことでも、なんでも言いたくなっちゃうから。なんでも共有して、声を聞いて、顔を見たい。
 どんな顔をして話を聞いてくれるのか、面白そうに笑ってくれるのか、呆れたように眉を下げるのか、相手のことを知りたくて仕方ないのだ。
 誰よりも花巻さんを知っていたい。あわよくば、誰よりも私を知っていてほしい。独占欲とは違う、きっともっと優しいものが私の中で大きくなっているような気がする。

 ごみを捨て、スマホをポケットから出せば通知のピンク色のライトが点滅していた。

『夜空いてる?今日休憩被らなそうだし、電話したいんだけど』
『仕事の後ですよね。何もないんで家に居ると思います』
『おっけー。終わったら連絡する』

 今ごろ花巻さんは怖いほど静かな学校の図書室を彷彿とさせる週報のまとめられたファイルが置かれた部屋でこそこそと私に連絡をしているのかと思うとなんだか面白いけれど。次の瞬間にはもう早く夜にならないかな、なんてスキップでもしてしまいそうな勢いでエレベーターに乗り込んでいた。