チヨコレイトで6歩だけ

 朝の従業員用のエレベーターホールはいつも空気がぴりぴりしているから、正直ちょっと嫌いだった。列を成す訳でもなく2台のエレベーターの前にはどんどん人が溜まっていき、働く階によってはしびれを切らして階段をのぼる人もいたりと様々である。

 それぞれに共通することは、エレベーターの階数ランプを食い入るように見つめている、ということだ。そんなに眺めたって首が痛くなるし、エレベーターの動く速度は早くならないというのに。

『次に乗れなかったら階段で行こう』

 そう思いながら首をさすってエレベーターを待っていると、隣に背の高い誰かが立ち、みょうじさんおはよ、と呟かれてようやく誰だろうと視線を送ると、そこには花巻さんがいた。
 とっても大きなあくびをして気だるそうに私から階数のランプへと視線を移した花巻さんは、今日は早番のようだ。

「……何本見送った?」
「まだ1本です」
「次も乗れねーよな、多分」
「次乗れなかったら階段で行こうかな」
「……え、マジ?」
「時々使いますよ、階段」

 横目で花巻さんの様子を見ていたら、驚きと共に視線はこちらへ向いて、お手本のようにぽかんとしているから我慢できずに口元を抑えて笑えばまた「え、冗談?」と聞かれて「いやいや、マジです」と呟くと、ピリピリしていた空気がその瞬間だけ気にならなくなっていたことに気付いた。

 同じフロアのスタッフでも、挨拶だけの人はまだまだたくさんいるというのに最近やってきた花巻さんはもうすっかり世間話もするような仲である。

 それから数秒、ようやくやってきたエレベーターには案の定乗れなくて、宣言通りに階段を一度見てから信じられないといった表情の花巻さんに小さく頭を下げた。

 背中を向け、別世界のように空気の違う階段の扉を開けると1段飛ばしで階段をのぼり始めるのだけど、割合的にはかなり使うこの階段はちょっと悲しい気持ちになる。灰色のコンクリートの壁に灰色の階段にやたらに大きな踊り場がそう思わせるんだろう。

 ひとつめの踊り場に足を乗せたあたりで重い扉の音がして、階段で行こうという仲間が1人増えたことを知らされて。コンクリートの壁に吸い込まれる私の足音よりも少し重く、早い足音がひとつ増えた。しかも足音が近づいてくるのがかなり早いから、相当急いでいるんだろうかなんて予想を立てれば、それはハズレだった。

「お供しまーす」
「……お、花巻さん」
「あの後すぐもう1台きたけど乗れなくて、その次はまた降りてくんのおせーから」

 階段をのぼりながらお喋りをするというのは、なかなかキツいものがある。それでも1人でのぼるよりは断然楽しくて、1段飛ばしが恥ずかしいと思いつつも元に戻すタイミングを失って、息切れながら「そうなんですね」と言えば「もう疲れてんじゃん」と可笑しそうにする花巻さんは私よりも全然余裕そうだった。

「ていうかなんで息切れしてないんですか」
「俺運動部だったから、学生時代に動いてきたお陰でポテンシャルは高いのよ」
「なるほど」

 ポテンシャルについて色々と思いつつ足を進めると、腕時計で時間を確認した花巻さんは「確かに階段の方が早いかもな」なんて呟く。

「ここくる前は路面店だったから、荷物搬入するのも楽だったしエレベーター待つなんてなかったけど、これはこれで良い運動だわ」
「じゃあ毎日階段にします?」
「うわ〜、冗談きついんですけど」

 その瞬間の引きつった顔ったら、写真に納めて本人に見せたいくらいだったけれど私たちはそんな仲ではないことはなんとなくわかっている。
 そんな話をしているうちに、あっという間に3階を通りすぎ、あとワンフロアのぼれば私たちの働く4階までは目前だ。

「あー……今日平気かなー」
「何かあるんですか?」
「オープニングスタッフの模擬接客するんだけど」
「はいはい」
「エリアマネージャーが見に来るって昨日突然連絡あってさ」
「……聞いただけで胃が痛い」
「だろ?」

 先に階段をのぼりきった花巻さんが扉を引くと、私がドアを通るまで難しい表情でドアによりかかり、大きなため息をついて私の後ろを歩く。

「嫌なこと思い出したせいで達成感薄れた」
「誰でも薄れますって」

 エレベーターを横切り、階数ランプを眺めれば電車の各駅停車のように各階に止まるエレベーターは2台とも私たちよりも下の階にいて、なんとなく気分よく振り返って後ろを歩く花巻さんを視界の真ん中に入れた。

「私で良ければいつでも愚痴くらい聞きますよ」
「そりゃ心強いな」
「他人の方が言えることって結構ありますもんね」
「あるある、仕事の細かい愚痴はあれだけど。感情的なやつは特に」

 例えばこういう関係を、なんというんだろうか。友達、ではない。仲間、でもない。知り合い、これが一番しっくりくるかもしれない。

「休憩かぶったら早速すげー顔してるかもしんない」
「そしたら笑っちゃうかもしれないです」

 フロアに出てすぐにお店がある花巻さんは、首のストレッチをしてから落としていた肩を戻したあと、私に手をあげて見せて来週にははずされる白いカーテンの中へ消えていく。オハヨウゴザイマース、って意外と真面目に。

 お店に向かうまでのフロアはいつも通りに薄暗かったけれど、頬を緩ませ少しだけ気分が良かったのはもしかしたら花巻さんのお陰かもしれない。