ドロップ弾く音がする
時計の針はきっかり18時を指している。いつも通り定時ぴったりに上がった私は、欲しかった服を買いに同じフロアの洋服屋へと爪先を向け、歩き出す。
「いらっしゃいませー……ってみょうじさんお疲れ〜」
「鹿野さんもお疲れー」
「あれだよね?リネンのスカート」
「そうそう。この間欠品してた色ってまだある?」
「あるよ!」
まっすぐに案内された先にあったスカートを見て、ハンガーに手を伸ばす。ぱりっとした素材感に育てがいを感じながら即決を告げると、ありがとうございます、と言いながら軽いお辞儀をしてスカートを受け取られ、レジに向かいながらはたと思い出したように振り向き、そういえば、なんて始まるその声に耳を傾ける。
「この間あのカフェ行ったんだけど美味しかったよ。ケーキもコーヒーも」
「えっ、そうなの?」
「うん。フルーツタルト美味しかったから彼氏にケーキ買って帰っちゃった。それと男の人いるでしょ。多分社員さんの。ピンクの髪の」
「いるね」
「あの人、私が同じフロアのスタッフだって気付いて、お疲れさまですって声かけてくれたよ」
「そうなんだ〜」
チクッ
「……んん?」
「なに。財布でも忘れた?取り置きにしようか?」
「いや、財布は持ってる。こっちの話」
今、胸のあたりがチクッてしたような。なに、なんだ?いやいや、まさか。
クレジットカードをトレイに出しながら、フルーツタルトが美味しかったという話よりも、コーヒーが美味しかった話よりも、鹿野さん口から出た花巻さんの話ばかりを頭の中で巡らせていた。レシートと控えを受け取り、ショッパーを下げて手を振ってお店を出る間も、ずっと。
通路を歩き、店頭に立つ他店の知り合いのスタッフに時折頭を下げても、頭に浮かぶのは鹿野さんが言っていた花巻さんの話だけだった。
一度きりだと思っていたチクチクという胸の痛みが小さく起き、首を傾げると、ふと。いい例えを思い付いた。この感情はきっと、自分にだけ懐いていると思っていた野良猫が他の家にもご飯をもらいに行っていたのを目撃したような、そんなものだと。
自店とは反対側の通路を通り、帰路につくために従業員通路へと向かう。いつもは横目に見るだけのカフェが目の前に見え、足を進めるごとに少しずつ近付いていく。
透明のショーケースが反射をやめると、ゼラチンでコーティングされたタルトが視界に入った。
……なんだろう。なんか、なんとなく。食べておかなければいけないような、そんな気がする。その深層は義務でもないけれど、欲望でもあり、わがままでもあり、確認でもあった。
ショーケースの前に立ち止まると、いらっしゃいませ、と低い声が耳に入り、顔を上げる。すらりとのびた指を絡ませあい、手を振る代わりに口角を少しだけ上げて微笑む表情を見て、私は自分のタイミングの良さに驚いた。だって、チクチクと痛む胸がいやに強まったから。
「なに、今日早番なの?」
「ちょっと買い物してて」
手に持つショッパーを見て、服か、と呟いた花巻さんに頷く。
「こういうの出来るから便利だよな、駅ビル勤務」
「好きなお店の新作もすぐ見れますもんね。洋服買って他店の子と話してたんです。そしたらフルーツタルトが美味しかったって聞いて。買って帰ろうかなって」
「……ふーん」
「ふーん、て」
「だって俺があんなに誘っても来なかったのに」
口を尖らせて不服そうな表情に、心の中で謝って。また胸のあたりがチクッと痛んだ。休憩室なら頬杖をついて私を見ているであろうその会話にも、確かに何度か誘ってくれていたなという申し訳なさも。
「フルーツタルトひとつください」
ショーケース越しにフルーツタルトを指差してそう言うも、花巻さんの手は動かない。ショーケースに向けていた視線を花巻さんの手元にうつせば、視界の端、上の方に見えた花巻さんは店内の様子を伺っていて。
「今ちょうど空いてるから食べていけば?」
「でも、」
「なんでだめなの?」
そう言われてみれば、だめという理由はなにひとつなくて。ただ引っ掛かるのは私が同じフロアのスタッフで、ひとりでお茶をしているというダブルパンチがなんとなく恥ずかしかったからだと思う。さっき、他店の子に聞いておけばよかった。1人で行ったの?って。もし1人じゃなくてもそういう人いた?って。
「ちなみに本日のパスタはペスカトーレです」
にやりと笑う花巻さんは、やっぱり私の懐に入り込んでいると思う。私の答えを待たずにメニューを持つと、ひらひらとして私を誘って。気付けば店内に向かって足を進めていた。
「こちらのお席にどうぞ」
ウォールナットのテーブルに少し固めの白いイスが二脚向かい合っておいてあり、私はなんとなく自分の視界を遮れる方に座ると、決まったら呼んで、と静かに告げて花巻さんは離れていく。程なくして水の入った綺麗に磨かれたグラスを持ってきてくれたアルバイトさんに注文を告げると、なんとなくばつが悪そうにテーブルを離れていった。
花巻さんはなんで私を誘ってくれたんだろう。空いているとはいえ暇そうには見えない店内の様子を見る限り、集客のために誘った訳ではないかもしれないような。
本日のパスタと、フルーツタルト。それと紅茶。考えただけでおなかいっぱいになってしまいそうだけど、帰りの電車でうとうとしてしまいそうだけど。家に帰ったらお風呂に入って寝るだけなのだ。それに気づいた私は思う。これって最高のアフター6かも。