打てば崩れよビスケット

 期待にも似た感情はどこへやら。フルーツタルトを食べてから1週間。花巻さんとの『今度』はなかなか来なくて、フロアですれ違うことはあれど裏で花巻さんに会うことはなかった。

 いつもの場所で、いつものように休憩をとる。いつものことだらけなのに、誰もいないことをいいことに私はひどくむすっとした顔をしていると思う。お弁当箱の入った袋を帆布のトートバッグにしまうと、食べたばかりのお弁当が美味しいか美味しくなかったなんて全く覚えていなかった。最近こんな調子なのは、何が原因なんだろう。

 キーッと蝶番が唸りをあげると、バタンと重い音がする。後ろから通りすぎて行くであろう軽い足取りが私の隣で止まり、顔を向けたら、お疲れ、と眉を上げてから驚く花巻さんがいて、じりじりと焦げるような気持ちが芽生えたような、そんな気がした。脇に抱えた分厚いファイルを見て、他店週報の確認かな、なんて思いながら。

「やっと裏で会えたな」
「あはは、ほんとに」
「交換しよーぜ」
「はい」

 唐突な本題と共にやってきた『今度』があっという間に時を戻すように私と花巻さんの距離を縮めると、花巻さんのポケットからでてきたスマホのメッセージアプリのコードを読み込んで、瞬く間に私と花巻さんは連絡先を交換した。
 スマートかと言えば少し違う、慣れているようにも見える花巻さんの飄々とした姿は相変わらずだったけれど、交換し終わった瞬間の至極満足そうな嬉々とした笑顔だけは今まで見たことがないものだった。

「さんきゅーな」
「いえいえ、こちらこそ。ありがとうございます」
「今度連絡するわー、って言うべきとこだけど」
「……?」
「早速今日飲みに行かね?」

 どくどくと血が体の中を流れる。心臓がポンプのように動いているのをやたらにはっきりと感じるのは、嬉しさか、恥ずかしさか、どちらなのか。

「今日、飲み会あるんですか?」
「ううん。2人で」
「……それは、どういうお誘いですか?」

 言ってから思った。可愛くないな、と。ひとつだけ自分を擁護するのなら、じんわりと顔が熱いのが目に見えているとしたら、そこは可愛いと思ってもらえるかもしれない。

「それ聞いちゃう?」
「ですよね。でも、もう聞いちゃいました」

 お腹を抱えた花巻さんは、けらけらと笑う。声のよく響く従業員専用の空間にいるのは花巻さんと私だけというのを知ってか知らぬか、すごく楽しそうに。

「みょうじさんのこと色々知りたいな〜、みたいな?」
「……そっか」
「うん。どうよ」
「行きたいんですけど、今日はちょっと。明日早番なんで遅刻すると怖いんですよね。家遠いし」
「みょうじさんち、そんな遠いの?」
「あ、でも少しだったら大丈夫かな。花巻さんも早番なんですよね?」
「そ」
「じゃあ、少しだったら」

 週報を抱えたままの花巻さんは、やった、と小さく呟いて笑った。さっきよりも嬉しそうに。

「外で落ち合うか」
「ですね」
「何食いたい?」
「何でもいいですよ」
「でた、なんでもいい」

 ひんやりとした空気も忘れてしまうほど、指先が暖かい。さっきのうるさい心臓のせいだろう。茶化すように花巻さんの言った『でた』は妙にリアリティがあったが、そこに触れるのはご法度な気がして。

「お昼食べたばっかりですもん。じゃあ花巻さんは?」
「俺もなんでもいいわ」
「……ほら、なんでもいいんじゃないですか」
「じゃあ宿題ってことで。2人ならどこでも入れるだろうし」
「そうですね、じゃあ後で」

 エレベーターホールへと向かう背中と、歯磨きセットをもってトイレに向かう背中が向き合って。ゆるりとした時間が溶けるように終わった。



 今日も定時きっかりに上がり、店を出る。花巻さんと飲むからとかそんな理由をもってしてではなく、いつものことだ。
 リネンのスカートを揺らし、シンプルなパーカーのフードを整えると、カフェの横を通るけれど、奥の方にちらっと見えた花巻さんは慌ただしそうに店内を歩いていた。

 やっぱりいつもの休憩のところで待ってみよう、そう胸の内で思って従業員専用通路に入ると、ちらほら埋まる席を眺め、空いてる椅子に座る。ポーチから出したリップを塗り、宿題の答えを頭の中で反復しながら。

 炭火焼きの美味しい焼き鳥屋さんとか、ちょっとお洒落なバルとか、夕飯ならチーズナンが美味しいカレー屋さんとか、色々考えたのだけど。好き嫌いが全くわからないし席数もありそうだしと普通の居酒屋さんでいいかな、という考えに至ったのだけど、今日それを伝えられるかな。忙しくてキャンセルになったりして。

『お疲れさまです。やっぱりいつものところに座ってます。急がなくて大丈夫です』

 そうメッセージを送ると、興味のないネットニュースをいくつか読み込んで、スマホのゲームを始めたころ。
音を立てて重い扉が開き、バタンと閉じる。ごめん、と降った声が花巻さんであることはすぐにわかり、スマホの画面を消して顔をあげると、ほんの少し乱れた髪と焦るような瞳がそこにあった。

 まわりにいる他の店のスタッフたちは、私たちをどう見ているんだろう。やっぱりお互いを想えば外で待ち合わせればよかったかななんて思ったところでそれは後の祭りで、私にできることは何食わぬ顔で軽く返事をして、その場を離れることだけだった。

 エレベーターに乗ると、乱れた髪を直しながら疲れを滲ませる花巻さんは言う。宿題考えてきた?と。

「ちゃんと考えましたよ」
「それでどうなった?」
「今回は普通に居酒屋さんで、様子見るのはどうですかね」
「お、いいね」

 エレベーターは降りる。花巻さんと私だけを乗せて。

「……なに笑ってるんですか」
「いやいや、真面目だなーって思って。あ、これ。褒めてるよ」
「ぜんっっっぜん褒められてる気がしない」

 そんな会話をしながらエレベーターを降りると、警備のおじちゃんに頭を下げてビルを出た。楽しそうな花巻さんを横目に、ぶらぶらと歩く。ここからは駅ビルのテナントスタッフとしてではなく、ただの通行人としてだ。