愛がなくちゃ


 喧嘩なんて気持ちのいいものじゃない。そんなのわかってる。愛があればそれだけでいい、なんてどこかから聞こえた恋愛ソングみたいなものは幻想だと私は思う。
仕事が忙しかったり、友人とうまくいかなかったり、いろんなことがある中で、大小関わらず恋人との喧嘩はあるわけで、私たちは数日間連絡も取らず、仲直りもせずにいた。

『なまえごめん。今日は行けないと思う』
『……幸郎の分のごはんは?どうすればいいの?楽しみにしてた気持ちは?……ごはんはまだいいよ、連絡のひとつももらえないの?』

 あのとき。いや、あのときだけじゃなくて。今まで一度も、幸郎は私との約束を忘れたことはなかったと思う。電話が鳴ったのは夜も深く、お互いに疲れが溜まり、余裕がなくなる。喧嘩の条件は驚くほどに揃っていた。

 夜間診療で急患が入って、つきっきりで見てあげないといけない。そう言った幸郎に『もういい』とだけ言って電話を切った私はひどい彼女だと思う。
 引き返すのは、もう、とても難しくなっていた。可愛げのない自分を本当に嫌だ、と思えば思うほど。

 スマホを眺めて、通話ボタンに指をかけては離す。ごめんね、と一言言えればいいだけなのに、大人になればなるほどごめんねが言えない。

『明日の夜、会える?』

 たったひとこと。電話は諦め、それだけのメッセージを送ると、既読がつき『なまえの家行けばいい?』とだけ、簡単な返事がきた。

『うん』
『夕飯は適当に食べてから行くね』

 了解のスタンプを押して会話を終わらせると、無意識に止めていた呼吸をした。息を吸って、吐いて。幸郎の気づかいが今は痛い。胸に刺さるように。
 ああ、どうしよう。仲直りって、どうやってするんだか、思い出せないや。



 インターフォンが押されて、玄関の鍵を開けた。扉を開けば、わかる人にしかわからないほどの変化をつけて幸郎が悲しそうに笑っていた。

「入っていい?」
「……うん」

 いつもはそんな確認しないのに。よそよそしい言葉が耳を伝って頭の中で響いて、脳みそに浸透していく感じ。

「冷蔵庫開けるよ」

 先に奥へ進んだ私の後ろで幸郎が何かを冷蔵庫にしまって、後をついてくる。やっぱり私、幸郎が好きだ。喧嘩をしていても、同じ空間にいるだけでいいと思えてくる。この間は恋愛ソングをどうとか言ったけれど、やっぱり愛があればいいのかもしれない。

 ひとつしかないビーズクッションを幸郎にゆずって、体育座りをして幸郎を見れば、同じように膝を抱いて組んだ腕の上に顎を乗せた幸郎が私を見ていた。

「幸郎、この間……ごめんね」
「ううん。お互い疲れてたからなぁ、最近」

 なまえは悪くない、とかそういうことを軽々と口にしないところが幸郎のいいところ。もちろん怖くもあるけれど、それは私が悪いと思っていたことをきちんと飲み込んで受け止めてくれている証拠だった。

「俺もあの時、連絡しようと思えば出来たなって、反省した。ごめんね」
「……ううん」

 ごめんねを言うのが案外簡単だと思えたのは、口にした後だからだろう。茶色のふわふわの髪が揺れて、幸郎は嬉しそうに笑った。

「あの時の子、大丈夫だった?」
「何日か入院したけど、元気になっておうち帰ったよ」
「……よかった」

 大きな手がこちらに伸びて、私の髪を触る。頭を撫で、手を掴まれると、伏せていた睫毛を持ち上げた。

「久しぶりにぎゅってしたいんだけど、いい?」
「……だめって言うと思う?」
「あはは、思わない」

 柔らかな笑みがこぼれて、長い腕が私をすっぽりと包む。広い背中に腕を回し、いつかの夜を取り戻すみたいに天井からオレンジの光が幸郎と私を照らす。

「なまえが落ち着くの待った方がいいと思って我慢してたんだけど、失敗だったかな」
「……なんで?」
「もっと早く仲直りして、こうすればよかったな〜って」

 見上げた先にあった幸郎の顔は、子供みたいに歯を見せて笑っていて、ほんとにそうだ、と思った。喧嘩なんて気持ちのいいものじゃない。けれど、喧嘩をして知ることはないこともない。

「あっ、そうだ」

 私の背中までまわっていた腕をほどき、立ち上がった幸郎が冷蔵庫へ向かう。私の入れた記憶のない白い箱を取り出して、テーブルの上に置くと、シールを剥がしてパカッと口を開けた。


「ロールケーキ食べよ。美味そうだったから、買っちゃった」

 優しく下がった瞼を見て、へらりと笑えば、幸郎の口角は弧を描いた。柔く、ゆるやかに。


キーワード : 獣医師の昼神幸郎と年下彼女、お互い仕事の疲れから電話で喧嘩、後日彼女の方から歩み寄って仲直り



モドル