月と星と鱗雲
 夜の空に、月に照らされた鱗雲が流れる。ゆったりと動いて見えるはずの月が風に乗る鱗雲によってあたかもどんどん移動しているように見えて、不思議だと思った。

「今日はちょっと冷えるな。車にもう1枚ブランケットあったと思うんだけど。持ってこようか」
「ううん。大丈夫だよ」

 手袋持ってくれば良かった、なんて思いながらかじかむ指先をポケットにしまうと、それを見ていた力さんの手が私の手首を掴み、ポケットからそっと引き抜いた。
 焚き火の近くはあたたかい。オレンジの火が揺れて、何も考えなくてもいいと思えてくる。例えば考えるのは、大好きな人のことや、楽しかったことだけでいい。

 足元とは対照的に、かじかんだ指先を包んだ力さんのてのひらはあたたかい。少しごつごつとした、優しい指先が私の指を撫でて、力さんのブランケットの中に連れていかれると、じんわりと思う。この人のそばにいられて、幸せだなぁって。

「……あったかい」
「うん、あったまってきたね」

 相変わらずに指先を撫でながら、力さんはそう返事をした。嬉しいことみたいに、瞳を隠すように目を細めて笑って。

「今日はあんまり星が見えないなぁ」
「でも、鱗雲も悪くないよ」

 力さんとキャンプをするようになって、もう何度目だろう。数えられないほどの星空と料理と焚き火。ありすぎてかすむほどにたくさんの記憶があるけれど、忘れられないものだってもちろんある。

「……なまえに、聞いて欲しいことがあるんだ」

 空いている手にホットワインの入ったダブル構造のマグカップを持ち、口をつけていたけれど、そっとテーブルに置いて耳を傾ける。穏やかな瞳に見つめられれば、ゆりかごの中にいるように心が優しくなっていくような気がして、とろりと瞬きをした。

「俺ね。なまえと付き合えて本当によかったって最近よく思うんだ。なまえと一緒にいるの楽しいし、幸せだなぁって思うし」
「……うん」
「なまえは俺にとって今までもこれからも、すごく大切で、いちばん好きな女の子だな、って改めて実感したり」

 なにかが始まるような予感がした。気のせいかもしれないけれど。ゆったりと瞬きをして、力さんの瞳を見たら、指先がきゅうっと少し強く握られ、心臓まできゅうっとほんの少しだけ苦しくなった。

「あの時、なまえのこと甘やかしたいって言って。なまえと付き合って。それからずっと、こうやって何回も何回も、デートしたり、キャンプしたり」
「改めて思い出すと、色んなことしたね」
「……うん。たくさん一緒にいて、思ったんだ」

 早く早く、流れていってしまうと思っていた月はまだそこにある。落ち着いてきた風が鱗雲をゆっくり流して、まだらに見える月がひどく綺麗に見えた。
 包まれた私の手はすっかりと暖まって、一本ずつ指を絡め直し、力さんのブランケットの中で居心地よさそうにしている。取り留めのない感情は、きっとこの予感のせいだろう。

「ずっとそばにいさせてほしい、って。朝起きたときも、夜眠るときも、どっちかがしんどいときも、すごく良いことがあったときも。色んなことがあっても、毎日一緒にいれたら。なまえと笑えたらってさ」

 まっすぐに向けられた瞳は、やっぱり柔らかく、優しかった。いつか、ずっとそばにいられたら。なんて思っていたものは私にとっては期待というよりも願いに近かったような気がする。

「なまえ。俺と結婚してくれないかな」

 ずっと一緒にいたいと力さんが思ってくれたことも、私を大切だと思っていてくれたことも、何もかもがうれしい。力さんがちょうどいいと思う時が私にとってもちょうどいい時かもしれないなんて思えていたのに、その時が来てみれば感情の器がいっぱいになって。言葉がどこかで詰まっている。

「……なまえ?」
「嬉しすぎて。なんて言ったらいいのか、わかんなくくなっちゃって、」
「その言葉、俺の奥さんになってくれるって受け取っていい?」

 伸ばされた手が優しく私を抱き締めてすぐ、私も力さんを思いっきり抱き締めた。片手は繋がったままだったけれど、そんなの気にならないくらい私たちは抱き締め合い、とても柔らかな空気に満ちていた。

「……おじいちゃんおばあちゃんになっても、力さんと一緒にいたいな」
「そうだね……手繋いで散歩したりね」
「素敵だよね。そんな仲良しのご夫婦。……でも私がおばあちゃんになったら力さんに『可愛い』って思ってもらえなくなっちゃうのかなぁって、それだけ心配」

 ふとした瞬間に口からぽろりとこぼれるように『可愛い』と力さんに言ってもらえなくなる日が来るのかな。手もしわしわになって、笑うのが下手くそになるのかも。それでもきっと力さんはおじさんになっても変わらず周りに人がいて、かっこよくて、なんならイケオジなんて言われてモテちゃうかもしれない。
 きょとんとした表情のあと、声を出して笑った力さんは、そんなことか、と呟き絡んだ私の指をとんとんと優しく触る。

「俺に言わせれば、なまえはおばあちゃんになってもきっと可愛いよ。 折角なら沢山笑い皺作ってさ。縁下さんところはいつも仲良いなーなんて言われちゃう近所で有名なおじいちゃんおばあちゃん目指すんでもいいかもね」

 何十年と年月を重ねたら、そんな時が来るのかもしれない。笑い皺が沢山。それは、何よりも幸せな証明だ。

「例えばキャンプができなくなっても、旅行に行ったり、近所を散歩したり、何だってできる」
「そうだね」
「詰まるところ。なまえが居れば俺は幸せなんだ」
「……力さんが泣かそうとする」
「さっきから泣きそうな顔してるように見えてたけどなぁ、なまえ」

 指を絡めていた手をほどき、力さんがぽろぽろ控えめに出てくる涙を見て私の肩を撫でてくれる。とても、とても優しく。反対の手がブランケットに入り、寂しがっていた私の手と繋ぎ直されれば、敵わないなぁ、なんて思って。流れた涙を指で拭いて引き寄せられると、私の肩に力さんのおでこが乗った。

「これからも一緒に年を重ねてさ。楽しく老けようよ」
「……力さんが言うと、老いって幸せなのかなって思えてくる」
「うーん……幸せだと思うよ?少なくとも俺にとっては」
「あはは、私もそんな気がしてきた」

 力さんがどんな顔をしているのか、なんとなくわかる。きっと、目を細めて優しく笑ってる。満ちる幸せはきっと隣の区画へと流れているかもしれない。ぽかぽかと暖まった心臓はあまりにも速くて、それはそれで心地が良くも思えた。
 繋がった手をノックされて視線を上げれば、力さんはさっきの予想とは違う顔をして視線を私に下ろしている。

「今、」
「うん」
「すっごいキスしたいけど。テント入るまでは我慢してるから。先に謝っとく……ごめん」

 ひんやりとした頬が赤いのは、空気が冷たいからだけではない。買い換えたばかりのローチェアが隣り合っているけれど、これほどに肘掛けが邪魔だと思ったのはきっと今が最初で最後だろう。

 風が吹き、鱗雲がどこかへ流れていく。隠れていた月も、控えめに光る星も、ようやく顔を出したところで力さんと私は視線をゆったりと絡めた。まんまるの月が、祝福するように微笑んでいたことなんて気づかずに。


一周年企画