フレンチトーストとカフェオレ
 澄みきった空気がひんやりしている。もちろん昨晩ほどではないけれど、間違いなく寒い。しんとした朝はあまりに心地よくて、何度も深呼吸をしたくなるほどだった。

 隣のテントから縁下さんはまだ出てくる様子はなくて、とりあえず車にしまっていた椅子と小さなテーブルを広げ、クーラーボックスから密閉した袋を出してチャックを開けた。

 家を出る前に角切りにした厚切りの食パンを卵液につけて持ってきたのだけどふにゃふにゃと柔らかくなったパンを見れば液がよく染みているのがわかる。時刻はまだ7時。起こすのもなぁと思いながら縁下さんのテントを眺めながらぼーっと鳥のさえずりを聞いていると、じじじじ、と細かな音を立ててチャックが開く。

 その瞬間、なぜかそわそわと心が躍ったのはフレンチトーストを食べれるという喜びからか、そうでないのかはわからなかった。外を覗くようにしながらゆっくりと外へと出てきた縁下さんと目が合うと目を細め、おはよう、と声をかけてくれる。

「おはようございます。朝ごはん食べましょう」
「待っててくれたんだ」
「はい。ちゃんと待ってましたよ」
「顔洗ってくるね」
「いってらっしゃい」

 タオルをぶら下げた縁下さんの背中を見送り、ガスバーナーに火をつけた。約束していたのだ、夜ご飯のお米を炊いてもらう代わりに、私が朝ごはんをご馳走します、と。美味しくできればいいな。焦がさないように気を付けなきゃ。

 家で使っているフライパンを上に置き、バターを乗せる。スケートでもするようにつるつると滑るバターで遊んでから火を弱め、卵液がしみしみの角切り食パンの入った袋ごとひっくり返せば、じゅわじゅわと少しずつ火が通っていく静かな音がたった。ザクザクと砂利を踏む音に顔をあげるとさっぱりした表情の縁下さんが、ただいま、と言って車へ向かう。後ろにしまっていた一式を下ろしてから、椅子とテーブルとガスバーナー、それと水をいれたコーヒー用のポットを私の方へ持ってきて、ゆったりと腰かけた。そして、フライパンを覗き込み、おお、と声をあげて言う。

「フレンチトースト?しかも厚切りの?」
「うん」
「絶対うまいやつだ」
「昨日から浸けてましたからね」
「あはは、みょうじさん期待値上げてくるな〜」

 楽しそうに笑いながらガスバーナーでお湯を沸かし始めた縁下さんがクーラーボックスから挽いた豆と小さなパックの牛乳を出してきて、ドリップの準備を始める。フィルターにコーヒーの粉を入れ、少しゆすって平らにして。昨日は少し離れたところで淹れていたコーヒーが目の前で淹れられるのは、わくわくする。きっと羨ましさも多くなりそうな気がするけど。
 ほんのり甘くてクリーミーな匂いが風と共に漂い、フライ返しで端っこをめくり、フレンチトーストの焼き目を確認する。

「わぁ〜」

 タイミングバッチリ過ぎて思わず声をあげると、縁下さんが可笑しそうに穏やかに笑った。覗き込むでもなく、コーヒーをドリップすることに集中しているままだからだろう。

「ここが運命の分かれ目……えいっ」
「………おお〜」

 パン同士がくっついているからとフライ返しで底にくっついているところがないかだけ確認をして思いきって裏返すと、フレンチトーストというよりはケーキみたいになっていて、フライ返しで仲良くしてるパンを離していった。コーヒーのいい香りが隣からは漂って、頭の中では最高の朝ごはんがすでに完成している。
 それにしてもいい香りだなぁ。コーヒーを淹れる縁下さんの手元を見ながら、ぼんやりと思う。

「ねーねー、縁下さん」
「なに?みょうじさん」

 真似っこするように返されて、堪らず口元をゆるませながら続きを口にする。

「おうちでもそうやってドリップしてるんですか?」
「してるよ」
「私もドリップ派になろうかな」
「香りが違うよな」
「そう!味はわかんないけど、香りは絶対違う!」

 力強く言いながらガスバーナーの火を止め、鍋敷きの上にフライパンを置くと、重ねていた小さなお皿を縁下さんに渡し、縁下さんと私の中間地点にメープルシロップを置いた。
 ちょうどコーヒーを淹れ終わった縁下さんが私の方へ手を伸ばして、空っぽの私のカップを黙って取っていく。ぽかんとしたままどうなるのか見ていると、1人分のコーヒーを半分、私のカップへ入れて、もう半分を縁下さんのカップに入れた。

「さすがにこれじゃ少ないからカフェオレにしようか」
「あ、……はい」
「香りは減っちゃうけど」

 牛乳が注がれて、焦げ茶色がミルクティよりも少し濃い色に変わっていく。なんだか不思議と、ゆったり注がれた牛乳がなんだかとても甘いもののように見えた。渡されたカップに入ったカフェオレの色があまりに優しいのだ。よくよく考えれば意地悪に目の前でコーヒーをドリップして独り占めする縁下さんなんていないはずなのはわかっていたけれど、半分にするなんて想像はしていなかった。

「早く食べよう」
「そうですね」
「いただきます」

 手を合わせ、丁寧に私を見て言う縁下さんに黙って頷けば、どうしたの、と言いながらフォークでフレンチトーストを自分のお皿に乗せる。
 メープルシロップをかける前にぱくりと大きめの角切りサイズを口に入れ、少しだけ目を見開きながら頷き、出っ張った喉仏を縦に動かした。

「これはまずいな」
「え?まずい?」
「…止まらなくなりそう」
「もー、びっくりした〜!なんですかそのどっちなのかわかんない言い方」
「美味いからまずいってことだって」

 口に含んだカフェオレは牛乳で割ったからか少し温くて、とってもまろやかだった。縁下さんは香りが減ると言ったけれど、インスタント慣れしている私には充分満足の行く香り高さだった。
 フレンチトーストをフォークで刺して何個かお皿に取って口に運べば、空洞がしゅわしゅわと音を立ててつぶれ、中まで染みた卵液がしっとりと口でとろける。

 小さなタイミングだった。ぴょこん、と心の中で昨日撒かれたばかりの種が芽吹いたような気がした。