嬉しいはずなのに戸惑って、言われるかもしれない言葉を巡らせて。私は治さんとどういう関係でありたいのか考えて。

 あまり眠れなかったせいで、いつもよりも早く準備を終えていつもよりも早くお店に来てしまった。鍵を開けようとしたら一応引いた戸が開いて、中にはカウンターの中ですでに準備を始める治さんがいた。

「おはようございます」
「おはようさん」

 引き戸を閉めてカウンターを通りすぎる時、治さんはなんだかすっとした表情をしていたのを盗み見て、じんわりと思った。私はここで働く治さんが好きだって。

 時間は少し早かったけれど着替えを済ませて休憩室を出ると、目が合った治さんが手を止めて体をこちらに向ける。

「なまえ。前座って」

 治さんの言う前は、カウンターの客席のことだ。不思議に思いながら言われた通りに治さんの目の前に座ると、まだ時間あるやろ、と可笑しそうに笑って言う治さんに目を奪われる。店内に掛けられた時計を見ると、まだ始業まで15分ほど。治さんだって早いのに、申し訳ないと思いつつ、カウンター席から治さんの働く姿を見るのは久しぶりなことに気づいた。

「昨日、ごめんな。驚かせて」
「謝らないでください。私はスマホ忘れたし」

 カウンターの上で組んだ手の指先が落ち着かないように動く。治さんは再開していた仕込みの手を止めて、伏し目がちだった視線を私に寄越して口を開いた。

「なぁ。好きな奴って誰?絶対店関連の人間やろ」
「えっ」
「なまえのコミュニティから考えたら、そうかと思ったんやけど。ちゃうの?」

 冷静な名推理に瞬きをしたら、なまえは俺の好きな子知ってるやろ、と眉を下げて緩やかに笑った治さんに心臓がきゅうっと痛くなった。もう立ち止まれない。前に進むしかないんだって。
 両手で口元を隠して、じっと治さんを見た。私が好きなのは、治さんですよって、今さら言えなくて。数秒間見つめあって、治さんは閉じていた口をうっすら開けた。

「……俺?」

 こくりと頷き、目頭が熱くなる。そう。そうです。私が好きなのは治さんです。

 自分を指差しキョトンとする治さんは、信じられないとでもいった表情をしていた。
 滲むように気持ちが広がっていく。好きな人に好きだという気持ちが伝わることがこんなに幸せなことなんて思えたのは、ずっと治さんを好きだったからだと思う。

「私。気持ちを言わないで、ずっとこのお店に働こうって思ってて」
「それって」
「……」
「ずっと一緒に居りたいから?」
「…なんでわかるんですか」

 無意識に少しむくれてゆっくりとカウンター内の治さんを見上げると、落ち着かない様子でカウンターに手をつき、ぼんやりとした視線を私から外さずにいる。
 静かに心臓が波打ちながら、お互いの告白まがいのやり取りに対する治さんの考えを口にされるのを待った。今ならあのOLさんの気持ちがわかる、すこしすっきりしたような気持ちがする感じ。
 視線を外さない治さんが静かに頬を緩め、今までで一番、この2年間で一番優しい瞳をした。

「結婚するか」
「け、…………え?」
「俺もずっと思ってたし。なまえにずっと一緒に居ってほしいって。店だけやなくて、家に帰っても、休みの日も。あ、勘違いせんといてな。ツムに焚き付けられたから言うたんやないから」
「付き合うじゃなくて…?」
「おん、それな。ずっとしっくり来んくて、昨日わかった。あ〜なまえと結婚したいんやって。なんなら丸2年付き合うてたようなもんやし」

 北さんがいつか言ってた。侑も治もDNAは一緒や、って。北さんに会ったら言おう、北さんの言う通りでしたって。

 治さんが突拍子もないことを言い出すのはこれが初めてではないけれど、今までで一番、確実に突拍子もない提案なのは明らかだった。
 治さんの言いたいことがわかり、納得してしまう自分にびっくりしながらずっと思っていたことを確かめるように頭の中でなぞる。

 第一の願いは、付き合いたいじゃなかったこと。ずっと一緒にいたいだったこと。いきいきと働く治さんの傍にいたいと思っていたこと。でも、何度も天秤にかけるほど好きになってしまっていたこと。

 ああ。うん。そっか……治さんの口にした結婚という言葉がストンと落ちて、ぴたりと収まった。

「結婚。する?しない?」

 きっとプロポーズなこれが、治さんと私には可笑しく思えて、目を見合わせて静かに笑う。ああ、これがベストの形なんだって。

「します、結婚」
「……ほんまに?」
「はい。本当に」
「やっぱり無しはもうきかへんで」
「……なんでかな。治さんとなら、うまく行く気しかしないんです」
「うわぁ、それめっちゃわかる」

 ふと時計を見て席を立ち、椅子をしまってカウンターに戻る。もう始めないと、後がつまってしまう。
 ちょうど炊飯開始のアラームが鳴り、火をつけて振り返ると、冷蔵庫からタッパーを出した治さんと目が合った。
 カウンターに抱えていたタッパーを置き、身軽な状態でぼんやりしたままの私の元へ戻ってきて、ぱっと手を広げた。

「ごめんやけど、一回抱き締めさせて」

 治さんのことは大体わかる。本格的な始業の前に、一度味わいたいんだって。実感したいんだって。それは私だって同じだ。
 ゆっくり一歩を進める間に治さんが私へどんどん近づき、背中に手が回る。キャップのつばが当たらないように横を向くと、早く波打つ心臓の音が聞こえ、目を閉じた。

「ずっとここに居ってな」
「…はい。これからもよろしくお願いします」
「なまえ。めっちゃ好きや」
「…治さん、どうしよう」
「ん?」
「やっと実感わいてきました」

 顔を上げてそう言えば、治さんは大きな片手で顔を隠し、もう片方を私の頭の上に乗せた。

「ヤバいな、なまえが嫁さんて」

 くぐもった声でそう呟き、指の隙間から私を見る瞳と視線が交わって、へらりと笑った。私だって、治さんが旦那さんなんてヤバいくらい幸せだと思いながら。

「始めるか」
「はい」

 これからどんどん深まるであろう実感を胸にしまいながら、今日の賄いは塩むすびにしようと早々に決め、カウンターへ向かう治さんの背中を追いかけた。
 いつまでも、一緒にいると約束してくれた治さんの背中を。




モドル