黒いTシャツは綺麗に畳んで引き出しに大切にしまってある。外に着てったら紛らわしいから着ないが、まず捨てるっちゅー選択肢は俺の中に無かったし。当たり前やけど。

 まだ糊の効いているスーツを着て、引き戸を開けた。就職してからなかなか顔を出されへんかったから、ゆっくりしたいところやったけど、閉店ギリギリやし、挨拶して帰る感じやろなとちょっとだけ寂しくなった。

 ほんの1ヵ月この店に来てないだけやったのに、ホーム感いうか、懐かしい感じがして、しかも目の前には治さんとなまえさんが居って。なんやちょっと、色々込み上げてもうて一瞬やばかった。

「……えっ!?治さん治さんっ」
「なに……山田くんやん!ひっさしぶりやな〜!」
「お久しぶりです!」
「もう5月だから1ヶ月ぶりかぁ。全然顔だしてくれないから忙しいのかなって言ってたんだよ〜」
「おにぎり食うてく?てか時間あるなら店で飲もうや」
「……え、ええんですか?時間ありますよ!?」
「よっしゃ。ほな座り。サクッとレジ締めするから待ってな」

 懐かしい景色。懐かしい匂い。圧倒的なホーム感と居心地の良さ。
 エプロンを外しはじめたなまえさんが俺を見て残念そうな表情をしていて、思わず「上がりですか?」と聞いた。

「そう。このあと用事あるんだ。折角山田くん来てくれたのにな、」
「また来ます」
「約束だよ?じゃあ次は予告して来て」
「はい。ラインしますね」
「……そのライン、俺にしてな」
「わかってますって」

 変わらない治さんの溺愛っぷりに思わず笑うと、バッグをかけたなまえさんが「相変わらず元気そうで良かった」と優しく笑ってくれて、挨拶を交わして店を出ていった。

 宣言通りにサクッとレジ締めを終わらせた治さんが奥の電気を消して戻って来ると、引き戸が開いてなまえさんが顔を覗かせた。

「山田くん、これ」
「なんですか?」
「あげる」
「……今買ってきてくれたんですか?えっ、すみません!」

 受け取った袋にはビールやチューハイが何本か。おつまみも入っていた。ラインナップを見ると、治さんが店の飲み会でよく好んで買っていた乾きものも入っとって、変わらない2人がここに変わらずいることを知って、無性に嬉しくなった。

「ゆっくりしてってね」
「あ、なまえ」
「はい」
「帰り連絡してな」
「わかったー、あとでね」
「おん」

 制服の黒Tのままで間隔を空けてカウンターの椅子に座る治さんの視線はなまえさんの影がなくなるまで扉を見つめていた。相変わらず仲ええな。そんなことを思っていると、おにぎりを目の前に差し出される。たらこと、ごま。

「まだあるで。残りもんやから気にせんで食うてええよ」

 久しぶりに食べた治さんのおにぎりはやっぱり絶妙な握り具合で、口にいれると米がほろほろとほどけていった。まかないでおにぎりを食べていたあん時が、いかに幸せだったかなんて今さらになって思う。めっちゃフレンドリーで働きやすい。仲間はみんなええ人ばっかで、美味いまかないがでて。

 何の仕事を選んでもしんどいことがない訳やない。社会人の初めなんか辛いことばっか。まぁ、全部が辛いことばっかりちゃうけど。期待と、不安と、疑問と、勇気と。色んな感情で毎日が忙しい。なんか泣きそうになって、鼻水をすする。恥ずかしいと思う時期は過ぎたから言うけど、俺は結構涙もろい方やと思う。悔しいとかなら泣かないけど、感動にはめっぽう弱い。
 おにぎりを口に押し込むと、プシュっと缶を空けた音がしてすぐ、目の前にビールが差し出される。

「山田くん、花粉症か」
「……花粉症です」

 けらけらと笑った治さんと缶をぶつけて、鈍い音がする。治さんの前で泣くんは2回目やった。就職が決まって俺がここをやめる時。そん時も言うてたな、花粉症かって。

「治さんとなまえさんが変わってなくて嬉しいです」
「あはは、確かにもう変化は要らんわ。なまえとはお互い幸せやなぁって、思えてたらええねん」
「うわぁ治さん惚気とる」
「ええで。今なら山田くんも惚気ても」
「俺も仲良うやってますよ。就職してもしょっちゅう会うてるし。家も近いんで」
「あれやで。就職も近くて家も近いなんて滅多にないで」
「うちの親とも、弟とももうなんか家族みたいやし、我慢してるんかなって思ったんですよ、最初は」
「あ〜」
「わかります?」
「心配なるよな、それもそれで」
「でも多分無理してるわけじゃないんですよ。やること全部が自然やし、わがままも言うてくれるし。でも優しいし」

 頬杖をつく治さんは完全に聞き上手の顔で俺の話を聞いてて、人の惚気を面白いテレビでも見てるみたいに楽しんでいる感じがした。

「次、治さんのターンですよ」
「あー…俺?」
「まだいっぱいありますよね」
「何気に山田くんには散々惚気てるからなぁ。ずっと思ってんねん。同じこと」

 ここでは肩のこりそうなジャケットを脱いでいると、治さんは頬杖をついたまま、ずいぶん前になまえさんが出ていった扉を見て、それから斜め上を見た。ワイシャツ姿になってビールの減ってきた缶を持ち、治さんが考えながら続きを言うのを待つ。

「目が覚めたらな、今日もなまえ隣に居った。可愛いな、好きやなぁ、幸せやなぁって、毎日毎日思うし」
「……めっちゃ愛っすね」

 しかもめっちゃええ顔。誰が見ても100パー惚気とる顔。ほんまにお似合いやから、俺までそれ聞いて幸せになってしまった。なまえさんが聞いたらどんな顔するんかな。一時板挟みやったけど、板挟み界では俺ダントツトップで幸せな板挟みやったと思うわ。

「山田くん、仕事はどうなん?まぁ山田くんのことは全然心配してへんかったけど」
「なんでですか!心配してくださいよ」
「なまえも心配してへんかったし、よう言うてたから。山田くんは人懐こいし、愛されキャラだから山田くんならどこ行っても心配ないって」
「俺、ここに就職すれば良かったです〜…」
「何言うてんねん。そんなこと言うてちゃっかり有名企業に内定もろてた奴が」
「俺かてわかんないですよ、今の会社になんで就職できたんか」
「アホやなぁ。それは人柄やろ。山田くんの。自信持って仕事したらええねん」
「治さん〜〜!酔うてるときにそれはアカン〜〜!」

 酔っぱらっとる治さんはいつもよりもお喋りになる。多分こんなん言われんの最初で最後かもしれへん。
止める暇も無くぼろぼろと目からしょっぱいもんがこぼれてまたら、治さんがケラケラ笑った。ひっどい花粉症やな〜って。
 ほんま、ひっどい花粉症やわ。

20201206





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