心なしか控えめに開いた引き戸に、耳を傾ける。恐らくのろのろと開いた戸の向こうから現れた人物に、カウンター内にいた治さんがあいさつをして「今日はひとりなんですね」と付け加えた。奥で在庫の確認をしていた私は、カウンターに遮られて誰が来たのかはわからない。
「持ち帰りでええですか?」
「持ち帰り……ですけど。その前に宮さんに、聞きたいことがあって」
神妙な声の主をこっそり見ると、それは治さんのことを気になっているっているというピンクのお財布のOLさんだった。その声に私はなんとなく状況を察知して息を潜めた。もう閉店間際でお客さんもいない。私が空気を絶ちきって表に出る必要性があれば息を潜めなかったけれど。治さんが私を探すように視線を向けてきたら表に出ようと思って、確認表の挟まったバインダーを抱えてしゃがんだ。
「宮さん、好きな子がおるって聞いたんです。先輩から。それって、ほんまですか」
ピンクのお財布のOLさんの声は強くて、震えていて、抱えきれなくなった愛みたいなものが詰まっているようで。私の聞けなかったそれを、OLさんは勇気を振り絞って聞いているんだと思うと、そっと目を閉じて何かを堪えた。この人は常連さんで、無下にすることはできない。そう思っているのか、悩むように唸りをあげる治さんの声が店内に静かに響いた。
「……好きなんです。宮さんのこと。最初はかっこええなって、思ってただけやったけど。好きになってたんです。宮さんのおにぎりは好きやけど、宮さんも好きなんです……付き合ってほしいんです」
痛いほどにわかる。天秤にかけて、それでも言いたくて。私はもうひとつの方を選んだけど、OLさんのように勇気がなかっただけ。目の当たりにするには切ない状況は、数秒で絶ちきられた。治さんによって。
「…俺、ずっと好きな子が居って。だから付き合うことはできないです」
「あー……ですよね。無理やろって正直思ってて。ダメ元っていうか。でも言ったらなんか。スッキリしたかも」
「……女の人って、強いよなぁ。俺が振られたみたいな気持ちになってくるわ」
「ここのおにぎりは好きやから、これからも通います」
溢れ出た思いが、すっとなくなったようにOLさんは味噌むすびを1つだけ買っていった。また3人で来ます、と残して。
戸が閉まった音と共に、立ち上がろうとしたとき。
あ、どうしよう。足痺れた……
プチパニック勃発の中、確認中の在庫の棚に手をかけて尻餅をつきそうになるのを阻止する。こういう時どうするんだっけ。まず立たないとどうにもならないんだっけ。なんかわからないけど、泣きそうになる。情けなくて。
また引き戸が開いた音がした。慌てて立ち上がろうとしても足が痺れてじんじんと血管がうずいて立てなくて。でも、お客さんが入ってくる足音はない。しばらくして戸が閉まって、足音が一人分店内に入ってきた。ようやくわかる。のれんを下げて、治さんが戻ってきたんだということに。
「えっ、なまえ…?調子悪い?立てへんの?」
「……足が、」
「足?くじいたか?」
「違うんです!その、……痺れちゃって」
しゅーっと煙でもでそうな気持ちでそう口にする。治さんはちょっと困ったように笑って、棚にかけていた私の手をぎゅっと掴み、ゆっくり立ち上がらんとキツいで、と落ち着いたように言う。本当、情けない。今まではこれでいいって思えてたのに。じんじんするのが足なのか心臓なのかの判断がつかない。
「……丸聞こえやろ、店ん中の会話」
「そうですね」
気丈に振る舞うこともできず、へらりと笑う。私はこのままでいいのかな。一生このままでいられるのかな。きっと、一生このままなんて無理なんだろうな。
……いいなぁ。私も勇気出せたらいいのにな。
「……なまえ、好きな奴居るんや」
「えっ」
「勇気出せたらな〜て言うたから」
「え?え、…え?」
「なんなんその驚きは」
え、私、今。口に出してた?
やっと痺れが落ち着いたと言うのに、今度はだだ漏れの心の声が治さんの耳にしっかり入ってしまったらしい。
無自覚すぎて、対処のしようが思い付かない。
なんならまだしっかり掴まれたままの手に気付き、慌ててするりと引っ込めてエプロンのポケットに手を突っ込んで隠した。
「治さんだって、いるって」
「そ。おるよ。……ずっと同じ子」
「私も、います。好きな人」
治さんは少しだけ悲しそうに眉を下げ、そうなんや、と言った。そのままの表情で、私の足を見てからレジ締めに向かう。もう平気そうやなって。
私は抱えていたバインダーを体から離して、在庫の確認作業を始める。空気が軽やかでないことは、きっとお互いに気付いていた。だけどその理由はお互いに気付いていなかった。