松川一静とランニング


 感覚が研ぎ澄まされていく。嫌なことを記憶から失くすことはできないけれど、この時間だけは無意識に考えていない。最初は興味本位で始めたランニングだけど、気づけば中2日も空けば気持ち悪い感覚になるほどにハマっていた。走るのが好きだというよりは、走っている自分が好きだ。肯定しようと思える、自分を。

 季節は秋を終えるところだというのに、半袖で十分にことたりている。というか、走っている間は半袖でも汗をかくくらいだ。いつか市民マラソンにでも出てみようかな。たしかマラソン大会って年末年始にかけての開催が多いんだっけ。エントリー間に合うのあるかな。

 くたくたのシューズでコンクリートを踏む度に、息が漏れる。最初のうちはリズムよく呼吸をしようとすればするほどうまくいかないことに苦戦して、ぐるぐると色々なことを考えながら走っていた。意識をしすぎない。自然体でいるのが体を軽く動かすコツだと私は思う。
 家まではあと500メートルというところでクールダウンを始めると、ぴゅうっと吹いた風を冷たいと感じる。この瞬間だけはウインドブレーカーを着れば良かったと思うのだけど、走っているときは道端に脱ぎ捨てたいほどに邪魔に感じるのだから困りものだ。


 鍵を開けて家に入ると、お風呂場へ直行してシャワーを浴びた。本当は髪の毛も洗いたいところだけど、いつも乾かすのが面倒で体の汗をささっと流すだけにとどめている。

「ただいまー」

 聞こえた声に思わずうきうきする。今日は私の予定に合わせて半休を取るといっていた一静が帰ってきたのだ。その瞬間思った。やっぱりシャンプーもすればよかったって。

 扉の向こうの一静に聞こえるくらいの声で「おかえりー」と声を出すと足音がぴたりと止まって「走ってきたんだ」と低い声が扉のすぐ向こうで発せられた。
 ラン前まで着ていたニットワンピとタイツを履くと、濡れた毛先をドライヤーで乾かしてメイクを直して脱衣所を出る。目が合った一静に改めて「おかえり」と声をかけた時、ちょうど一静がネクタイを外すべく首もとをゆるめていた瞬間で私は毎度のことながらラッキーと自分のタイミングを称えた。全女子が憧れるこの仕草は、やっぱり何度見たってかっこいいのだ。多分理由はひとつ。相手が一静だからだ。

「なまえのランシューズ、そろそろ買い換えた方がいいよ」
「実はいつ突っ込まれるかと思ってたんだ」
「愛着が湧くころに寿命が来るもんだしな。残念ながら」

 確かに新しいシューズは欲しいと思っていたけれど、一静のいう通り愛着も湧いていた。でも一静のアドバイスはもっともだから、次はお試しの値段じゃなく折角なら少しいいものを買おうなどと考える。この間このニットワンピを買ったばかりだから、本当はせめて来月に買い換えたい気もするけど、何事もタイミングというものがあるし。どうしようかなぁ。

 私がバッグの準備をしている間に着替えを済ませた一静が財布をパンツの後ろポケットに仕舞ってリビングの扉の前で振り返って私を見て、行こ、と波のない海のように穏やかな瞳で言い、近づく私に付け加えた。

「なまえ頑張ってるから、新しいシューズ買ったげる」

 ゆるりと口角をあげた一静に嬉々すれば骨張った手が一静の口元を書くし、可笑しそうに一静が笑った。ぎゅっとしまったばかりの財布の紐を開き、ウェアを一着プレゼントしようと決める。時々ランに付き合ってくれる一静に。


▽ △ ▽ △



 足の長さが違う。そもそも身長が違うのだから当たり前なのだけど。流すように走る一静が時々私の様子を伺う。なんとなく足の回転がいつもよりも早いような気がする自分の走りを見つめ直していると、なまえ、と一静に声をかけられる。

「いつも通り走りな」
「うん」
「シューズはどうよ」
「グリップがすごい効いてる」
「走りやすい?」
「うん!」
「なら良かった」

 まるでイケメンのコーチにでもついてもらっているような気分になってくるけれど、その完璧な姿を纏うTシャツは私がプレゼントしたものだ。考えようによっては、イケメンのコーチと付き合っているようだとも思える。

「ね、一静」
「はいよ」
「絶対1週間ぶりじゃないよね」
「いや、間違いなく1週間ぶりだから」

 息が上がらない一静は、余裕しゃくしゃくの表情だ。なんでー、と心の中で思いつつも、高校で培った体力はそう簡単に衰えることはないらしいと道端に時々言葉を置き去りにするように思った。
 1人で走るのと、2人で走るのは違う。心拍が穏やかで、いつもよりも楽しくて、良い意味でランに集中しすぎなくて良い。

 だんだん家に近づいてくと、毎回ルートは同じになる。シューズを新調した日も、それ以外も、クールダウンの道はいつも同じだ。

「やっぱ楽しいなー、一静と走るの」

 返事をする代わりに相づちをうつように微笑んだ一静に、その笑顔は心拍数が上がるから今はやめてとふざけて思い、クールダウンを無事に終えて家に入った。
 いつもの癖でお風呂場へ直行すると、一静が後ろを着いてきていて、ぱっと振り返って見たその表情はちょっと楽しそうにも見えて。

「……一静先にシャワー浴びる?いいよ?」
「……汗かいたままじゃなまえ風邪引くよ?」
「……先に入っていいの?」
「いや、一緒に入れば良くない?」

 最後の言葉にぎょっとした私は、一静にむりくり手を引かれて浴室に入る。そして一静がゆるゆるといたずらに笑いながら、ガチャン、と音をたてて扉を閉めた。


モドル