小さな花にくちづけ

「岩ちゃん!今日デート?」
「あ?だったらなんだよ」
「ちぇ〜やっぱデートなわけね」

 いつも通りうるさい及川に、早く帰れ、と一蹴するように言ってなまえのクラスへ向かう。及川のことだ、どうせラーメンだかファミレスだか、そんなんに誘われるだけに決まってる。
 俺のとこに来たなまえが眉を下げ、今日日直なんだ、と申し訳なさそうに言った頭に手を乗せたのは、記憶に新しい昼休みのことだった。別になまえがそんな顔する必要ねぇのに。

「なまえ」
「…はじめ!ごめんね、これで終わりだから!」

 教室に顔を出すと、何故かなまえ一人しかいなくて、首を傾げて教室に入っていく。黒板消しを持って、つま先立ちをして、それでも一番上まで届かないなまえを見て、つい可愛いと思った。

「全然届いてねぇな」
「だって!仕方ないでしょ、無理なものは無理なの」
「何で一人なんだよ、こういうのこそ男がやるべきだろ」
「最近、塾の時間早まったんだって。日誌はちゃんとやってくれたからいいかなって」
「……お前がいいならいいけど」

 もう一つの黒板消しを取って、上から下へかけていくと、なまえは憧れるような視線を俺に送って、はじめかっこい〜!なんて楽しそうに言う。唐突に言われんのはマジで困る。黒板に顔を向けてから思った。緩みそうな顔を我慢する方の身にもなれって。

 なまえは、他の女子よりも背が小さくて、華奢だ。俺と並んでも身長差がかなりできるくらいに。なまえがぴょんぴょんジャンプした白い山のような跡がいくつもあり、それを見て思わず笑った。その時のなまえを想像して。

「はじめ、ありがと」
「おう」

 さっさと終わらせて、折角のなまえとの月曜日を満喫したい。黒板消しをナマエがクリーナーにかけて、俺は出しっぱなしのチョークを引き出しにしまった。
 鞄を持ち、日誌を抱えたナマエと廊下に出る。一階の廊下は静かで、なまえが響かないように小さな声で喋りだした。

「はじめ」
「ん、」
「今日どっかいく?」
「どっか行きたいとこあんのか?」
「んー、ない」
「なんだよ、あんのかと思った」
「おうちがいいな」

 ないって言ったのは気のせいだったんだろうかと思ったが、多分なまえが言いたいのは出掛けるって意味でないって言ったような気がする。多分だけど。目が合ったなまえが、ゆるゆると嬉しそうに笑った。なんも笑うようなとこねーと思うけど。

「また眉間に皺寄ってるよ」

 小さな手が伸びてきて、俺の眉間を中指と人差し指で伸ばされた。誰もいないからいいが、及川にでも見られたら一週間は笑いのネタにされる気がする。





 すっかり慣れた俺ん家までの道のり。なまえは迷うことなく俺の横を歩いて、必然的になる上目遣いで時折話しかけてくる。

「今日はじめのお母さんいるの?」
「たしか出掛けるっつってたような」
「あ、そうなんだ」
「まぁ早く帰ってくるかもしんねーけど。さっきなまえがうち来るって一応連絡はしといた」

 満足そうな笑顔で俺を見上げるなまえを見て思い出す。付き合い初めたばかりの頃から、なまえはいつも言っていたのを。突然家にいたらびっくりさせちゃうからお母さんに連絡してねって。俺もそれが癖になっているのに、今さらになって気付いた。

 ふと目が合ったなまえの表情は、じわじわと笑顔が増していく。

「なんだよ」
「ううん」
「気になるだろ、言えって」
「はじめ」
「ん」
「私が話しかけると、いつも少し屈んでくれるから。嬉しくて」

 言われてみれば、今の俺はなまえの声に集中しようと背中を丸めていた。それをすごく幸せなことみたいに俺に言うなまえにも、言ってやりたい。なまえだっていつも俺に上目遣いしてんだけど。しかもいまだに全然慣れねぇんだけど。

「…無意識だったわ」
「私、その度に思うよ。小さくてよかった〜って」

 ……当たり前だが。俺の性格上、そんなことは言えるわけもない。

 それからすんなりと家に着き、鍵を開けるとなまえが俺の背中で控えめに声を出した。

「お邪魔します」
「……お、やっぱまだ帰ってきてねぇ。靴ない」
「お出掛けだもんね、つい遅くなったりするよね」
「ああ。確かにな」

 先になまえを俺の部屋に行かせて、麦茶を持って後を追った。ドアを開ければ、なまえはこの間読んでいた漫画の続きを開けずにじーっと見ていて、ごめんどうしても気になってて、なんて目次を開きながら言う。

「持ってけば、それ。貸してやるよ」
「え!いいの?」
「あんまり欲張ると帰り鞄重いぞ」
「そんな欲張りじゃないです〜」

 3冊、折れないように教科書の間に差し込んで鞄に入れたなまえは、チャックを閉めてガキみたいに喜んだ。わーい、だって。

「なまえ、あんま嬉しそうにすんな」
「……?」
「今すぐ漫画のことは忘れろ」
「なんかあれだね、私と仕事、どっちが大事なの?みたいな話になりそうな流れだね」
「なんだそれ」
「あはは、違ってたか」

 笑うたび、小さな肩が小さく揺れる。なまえの例えは女子が使うやつだけど、完全に間違ってるわけではない。あぐらの上に空間を作って、もう呼び慣れた名前を呼んだ。

「なまえ」
「ん?」
「こっち、早く」
「えへへ」
「……笑うなよ」

 いつも通りにちょうどすっぽり収まったなまえが、ゆるりと口を開いて俺の方に振り向いて、目が合って。すかさず軽い口付けを落とした。

「はじ、」
「気ぃ抜きすぎ」

 驚く表情にしてやったりで細い腰を抱けば、簡単に手が回ってまた目が合った。腕の中で、もぞもぞとなまえのが俺の方を向く。
 もう一度だけ唇が重なって、離れるなまえに小さく心臓が跳ねた。すげぇ優しく、花みたいに笑うから。


なみだの花笑みさまへ、お友だち記念に贈ったお話