寂しさの深度


 どこにでもあるようなマンション。翔ちゃんの住む寮は、本当にその言葉がぴったりだ。大抵の寮はこんな感じなのかもしれないけれど、私はムスビィの寮しか知らないからこんなことしか言えない。

「なまえ!ご馳走さま!」
「んー、なんか今日は味薄かったね」
「なんで?うまかったよ?」

 ご飯をかきこんだのか、にっかりと笑う口の端には米粒がひとつ、ついている。いつまで経ってもやっぱり私が知っている彼のままだと思いながら「お米ついてるよ」と伝えれば、ぺたぺたと顔を触って取ったお米を食べて楽しそうに笑顔をむけてくれる。

 食器を下げると、シンクにたまった洗い物を始めようと腕をまくる。翔ちゃんも隣にやってきて腕をまくった。ブラジルでルームシェアをしていたからか、なにも言わずとも翔ちゃんは家事を手伝ってくれる。

 最初のうちは怪我をされたくなくて断っていたけれど、だんだん絆されるように手伝ってもらうのを素直に受け止めるようになっていた。2人でやった方が早いじゃん!とあっけらかんに言われたときは、それもそうだなんて思ってしまったし。
 昔から好きだった人のことを、増すように好きになる。知らなかったことを知る。大好きだと言えば、大好きだと返してくれる。時々、いや、翔ちゃんに会うたびに思う。あの時、頑張ってよかったって。

「俺すすげばいい?」
「うん!ありがと」

 2人で並ぶと必然的に肩がぶつかる幅のシンクを前に身を寄せ合って洗い物を終えると、すすぎを終わらせた翔ちゃんが掛けられたタオルで手を拭きながらこめかみに鼻と口を寄せてふにふにとこすりつけてから離れていった。

「ありがとな、なまえ」

 すっかり気を抜いていた。ありがとうはこっちの台詞なのに。キスでもない触れ合い。こめかみに残る余韻に浸るままに翔ちゃんを見れば、歯を見せて子供みたいに笑って私をまっすぐ見てくれている。ねぇ、翔ちゃん。だめだよそういうの。私本当に無邪気な翔ちゃんに弱いんだから。

「でも、次はもっと頑張るよ」

 今日はお礼を言われるような出来じゃなかったよ。実家暮らしの私は今までの甘えっぷりのしっぺ返しをくらうようにお世辞にも料理上手とは言えない。

 私もタオルで手を拭いて翔ちゃんの背中を追うと、カバンから出したハンドクリームのチューブを手の甲に向けて絞った。グレープフルーツの香りが広がりとってもすっきりした気分になる。手を鼻に寄せてグレープフルーツの香りをかぎながら翔ちゃんの隣に座ると、つけたばかりのテレビがぷつりと消え、オレンジの髪が視界の端で動いた。

「……話があるんだ、なまえに」
「な、なに……?」

 テレビを消すほどのことってなんだろう。グレープフルーツの香りが広がる空間の空気が少しだけ冷えたような気がした。彼の口から何を言われるのか、見当なんてこれっぽっちもなかった。わからないけれど、きっと様子を伺っていたのかもしれない。今から言われる何かを、口にするタイミングを。これはわたしの予想にすぎないけれど、なんとなく喜ばしい話じゃないような、そんな気がした。だって翔ちゃんは、あまりに真剣だったから。

「俺、来シーズンからブラジルのチームに移籍することになった」

 冷えた空気の中に、さらに冷たい空気が吹き抜けたような気がした。嫌な予感を感じていたのに、当たっていたというのに。自分がぐずぐずの顔をしているのが、カーテンを閉め忘れた夜を知らせる窓に映って情けなくなった。

「そっか、」

 目の前にいるこの大切な人を困らせないように、ぐずぐずの表情を振りきって言えば、翔ちゃんはまっすぐな目で、うん、と大きく頷いた。来なければいいと思っていたんじゃないよ。簡単に会えなくなることも、いつか覚悟していたよ。それでも。それでもやっぱり簡単には飲み込むことが出来なかった。

「なまえ?」
「……おめでとう、翔ちゃん」
「ありがと!」

 一瞬で自分が嫌いになりそうだった。ぐずぐずとした顔をしてしまう自分が。ほとほと私は欲深いのだと知るには今は最悪のタイミングだ。
 一度手に入れてしまったら、一度振り向いてもらったら、もう簡単には手放せない。でも、手を放すしか手はないのだ。わかってる。わかっていても、心の中でそれでも足掻いてしまう。引き留める勇気もないというのに。

「私、お風呂入ってくるね」
「おうっ」

 話をやめるにはあまりにもタイミングがおかしいというのに、翔ちゃんは私を止めなかった。むしろ笑顔で、清々しいような笑顔をしていた。脱衣所で服を脱ぎ捨て、浴室に入るとシャワーを出し、目から出るものを一緒に流した。声は殺して。
 付き合って1年と少し。私はその間に、ここまでの我慢をしたことはなかったと思う。泣くな、目を腫らすな、翔ちゃんの動き続ける足を止めさせるな。思えば思うほど涙が出そうになるのに、どんどん強く固くなるような感覚もあった。

 お風呂から上がり脱衣所を出ると、翔ちゃんが眠そうにうとうとと船を漕いでいた。おやすみ10秒だから、翔ちゃんは。いつもなら可笑しく笑ってしまうようなことなのに、私はその姿を無意識に脳裏に焼き付けていた。