永遠は雨に沈む
心の中を表すように大雨が降っていた。今日は翔ちゃんが家を空けている間に外でひとりぶらぶらしようと思っていたのに、足元の悪さと湿った気持ちが足取りを重くさせる。2泊するなんて言わなければよかった。ちゃんと向き合う余裕を整えて、また改めて話をした方が翔ちゃんにとっても私にとってもよかったんじゃないか。
ぼーっと翔ちゃんの匂いのするベッドに沈む午前中はあまりに憂鬱だった。逆に思い出してしまう。楽しかった思い出ばかり。よくよく考えれば別れようと言われたわけでもないというのに、離れがたいという付き合い始めの頃には思う予定のなかった感情が私を暗く重くさせていた。
買い物に行こう。朝、翔ちゃんが煮込みハンバーグがいいとリクエストをくれたから、それに応えよう。冷蔵庫を開けて、スマホのメモに買い物リストを入力していく。挽き肉と、トマト缶と、たまねぎ。野菜もいいのがあったら買おう。冷蔵庫を閉めて、足先にぎゅっと力を入れて立つと、よし、と声に出してみる。うじうじしてもどうしようもない。
▽ △ ▽ △
外に出ればやっぱり楽しいもので、買い物前に寄った商店街で楽しく時間を消費し、翔ちゃんの寮につく頃には空は暗くなっていた。買い物袋から買ったものを出して並べると、何ひとつ冷蔵庫にいれることなく料理を始める。まだ翔ちゃんに告げられた帰宅予定時刻までは1時間ほどあるけれど、やっぱりこんなに遅くなるのなら午前中から買い物に行けばよかった。お腹をすかせて帰宅する翔ちゃんを待たせたら申し訳ないもの。
玉ねぎを皮を剥いてから包丁を入れる。ハンバーグだけは自信があった。何度も作って、何度も美味しいと言ってもらえていたから。みじん切りをするために切り込みを細かく入れながら思う。こうして翔ちゃんにハンバーグを作るのは、あと何回あるんだろう、と。リオで、遠く離れたリオでバレーボールをしていた頃は、私と翔ちゃんはただの学生時代の同級生だった。連絡先も知らない。私が翔ちゃんを大好きで大好きでずっと応援していたことを抜きにすれば、本当にただの同級生。あの時私は言ったのに。
『日向が何になっても、どこに行っても、その時の日向を好きになるんだと思う』
ダメで元々。当たって砕けろ。そんな気持ちだったから出た言葉だけど、嘘ではない。でも、思わないじゃない。地球の裏側へまた行ってしまうなんて。これから新幹線や夜行バスに乗れば数ヵ月に一度は翔ちゃんに会える生活だったものが、そうではなくなる。電話も気軽に出来なくなる。息をするように、当たり前のようにバレーをする翔ちゃんが大好きだけど、でも。やっぱり、ブラジルは遠いよ。
「うぅ…」
ぼやぼやと視界が掠れる。包丁を置いて目を擦ると、玉ねぎのせいでもっと涙が止まらなくなる。もうみじん切りを終えていた半分の玉ねぎをボウルに入れていると、ガチャガチャと鍵が開いてぴくりと肩が跳ねた。どうしよう、もう翔ちゃんが帰ってきた。時計を見ようにも視界はまだぼやけているけれど、きっと言われた時間はまだ越えていないはずだ。
「ただいま〜!」
「おかえり……」
「……え!?なまえ泣いてる!?」
翔ちゃんの前で涙を流すのは、久しぶりのことだった。泣いてない、と鼻声で言いながら首を振れば、いやいや!泣いてるだろ、と私の顔を覗き込む瞳に思った。大好きだって。離れたくないって。出来たばかりのかさぶたが剥がれるように、傷口が露になるように、理解ある彼女じゃない私が口を開いた。
「……やっぱり、遠すぎるよ。ブラジルなんて、遠いよ」
「あの、えーっと、なまえちゃん……?」
「翔ちゃんが待っててって……言ってくれるなら待ちたいよ。けど、頑張る糧にしたりできる自信ないよ」
終いには鼻水まで出そうになって、慌てて手を洗ってティッシュを取りに走ると、翔ちゃんが私の手首をぎゅっと握って引き留めた。告白をした、あの神社でのことを思い出して、ぐずぐずの顔で翔ちゃんを見る。
「鼻かませてよぉ〜」
「なまえ〜!そんな泣くなよ〜!」
手を離さずに今度はティッシュの所まで引いてくれた翔ちゃんがティッシュを2枚取って私の鼻にぐしゃぐしゃのまま当てる。ほら、かんで!と流されるままに鼻をかむと、ぎゅっと丸めたティッシュをテーブルの上に置いて私をそのまま座らせた。
「お前、勘違いしてるって」
楽しいことでもあったみたいに笑う翔ちゃんに首を傾げれば、待たなくていいよ、とあっけらかんとした表情からでた言葉にひゅっと涙を止めた。卑屈になっている私には、楽しそうに別れを切り出されている以外の解釈は生まれなくて、うう、と声を漏らすと大きな手のひらが私の頭を撫で回して、愛みたいなそれが潜むような瞳で私を捉えた。
「待つんじゃなくてさ。一緒に行こう」
「……どこに?」
「どこにって!ブラジルしかないだろ〜!」
大きな手がそのまま私の涙を拭いて、にいっと歯を見せ、黒目を隠すように笑う。ようやく意味を理解して、また涙が出る。それはきっと、翔ちゃんにとっての私との距離はブラジルと日本ではだめだということだ。そしてバレーも私も、翔ちゃんはどちらも欲してくれているということを示しているような気がした。
「でも私、日本語しか話せないよ」
「どーにかなるって!アプリもあるし。俺も話せるようになってたくらいだからな!」
「仕事とか、」
「生活費は俺が頑張ればどうにかなるよ」
「……親には何て言えばいいの?」
「普通に結婚させてください!…とか?」
「……」
「え!違うかな!?」
知らない間に私の人生の少し先の話までが翔ちゃんの中では決まっていて、引っ込んだ涙の代わりに目の縁がじんじんと熱かった。不安がないわけではない。頭を悩ませる翔ちゃんを見れば、呼吸をするように何度も思ったことをまた思う。この人となら人生楽しく生きていけるって。そして、ぐう、と翔ちゃんのお腹が鳴って思わず頬を緩めた。
「なまえ〜、俺腹減ったよ〜」
「ごめんね。まだ全然出来てないんだ」
「だよなー、じゃあ煮込まない方で!」
甘くとろけるような毎日じゃなくてもいい。一番バレーを大切にして、悲しみが襲ってこない距離にいれてくれればいい。でもまさか、さすがに翔ちゃんの言葉は思いもよらなかった。
人生は思うようにはいかないけれど、人生がどう転がるかだって誰にもわからないものなんだね。