いいかげんにしなさい。ワタルさんは恐い顔でそう言った。静かな声だったけれど、わたしは大喝されたような気がしていた。薄暗いなかでも、彼の批判的な視線は、一族の秘密の祠でひとりきりうずくまっていたわたしに余すことなく向けられていた。寒々とした夜の冷気がいっそう鋭くなって、わたしに襲いかかる。こんなことをして何になる。ワタルさんはなおも続けた。なまえ。わたしはただ、黙ったままでいる。ワタルさんの顔を見つめたまま、抱え込んでいた両足をさらにぎゅっと体に密着させて、長老の孫であり一族の次期総領である人間に抵抗の意をはっきりとつきつける。
どれだけそうしていただろうか、ワタルさんがついに痺れを切らしたようにわたしの腕を乱暴にひっぱった。びりびりと腕の付け根に痛みがはしる。それでもわたしは頑として動かなかった。力強い手から、苛々しているのが伝わる。こんなワタルさんは初めてだった。いつもにこにこしていて、だけどポケモンバトルのときは精悍な顔をする彼はすっかりどこかへ隠れてしまったような気がしてならない。この雄々しく穏やかな竜の里と一族の誇りを大切にするつよいひと。わたしだけじゃない、一族みんなが憧れるワタルさん。
こんなことをして何になる。ワタルさんはまた繰り返した。体を壊すだけだ、キミはそんな愚かな子じゃないだろう。オレには分からないよ。キミは態度ばかりで教えてくれないからね。
一方通行の言葉を投げかける中で、ワタルさんの声にはだんだん寂しさと悲しさが増していった。聞いているうちにからっぽの体に同じだけの寂しさと悲しさが積まれていく錯覚がする。わたしはついに、ワタルさんから顔を背けて冷たい地面に逃げた。ワタルさんには分からない。分かるはずがない。ワタルさんに分かってほしいわけじゃない。キリキリと身を刺す痛みも気道に綿が詰まったような呼吸の乾いた息苦しさも、どうしようもない無力感も絶望感も。
「…なまえ。ここにいても何も変わらない。何も還ってはこない。なまえ、帰ろう」
わたしは強くなれなかった。大好きな竜の里に相応しい人間になることができなかった。なまえ。なまえ。視界の外のワタルさんはわたしの名前を繰り返し呼ぶ。どうしてそんなに心を砕けるのか、わたしにはそれが分からないよ、ワタルさん。わたしはあなたの優しく大きな期待を裏切って、竜使いになることを放棄してしまったのに。気づけばわたしは泣いていた。断ち切るために「仕方ない」で埋めてしまったとばかり思っていた種類の涙だった。あとからあとから静かに溢れてとまらない。振り切ったはずの未練があることが情けなかった。ワタルさん。どうして駆けつけてくれたりするの。あなたの望むようにはなれなかったのに。ワタルさん、ねえ、どうして。
腕をひっぱっていた力がいつから弱くなっていたのか、わたしは気づいていなかった。そんなに長く痛いとは感じなかった、ような。冷気はゆったりと光を含もうとしていた。座りっぱなしの地面はぬるい。あぁやっと、朝がくる。きっとワタルさんはセキエイに戻らなければいけない。涙はいつしかとまっていたけれど、未練はいつまでもおさまらなかった。だけどそれも、ワタルさんが祠を出れば失せてしまうにちがいない。そうしたらわたしはまたここで、とおいところにひとりぼっちでいってしまったあのこのためにお祈りを捧げよう。
「なまえ」
はっとするほど切ない声だった。顔を上げるとワタルさんの悲しそうな表情がそこにあった。「……ワタルさん」。ようやっと彼の名前を呼んだというか、ついに彼の名前を呼んでしまったというか。しばらくぶりに聞いた自分の声は、あまり好ましく思えなかった。それでもワタルさんは、肩を下げて小さく笑った。小さく笑って、そして。
わたしの唇に彼の唇が重なっていた。表面と表面だけのキスでも、薄い皮膚から伝わるのはたしかにワタルさんの熱だった。一度だけ、触れたことのある熱。あれはたしか、なにかのご褒美に散々ねだったときだ。あまりのしつこさに折れたワタルさんの気まずそうな顔のあとの、刹那に溶けるように触れた子供騙しの口づけ。思い出したらこめかみのあたりがつきんつきんと痛んだ。ごめんなさいワタルさん、わたしもう、あなたに褒めてもらえるようなことなにひとつできない。
離れたときには生々しくやわらかい、味のしない感触がわたしの歯に残っていた。寸前まで歯を立てたのに、どうしてもそうすることができなかったのはとまらない未練のせいだった。でもワタルさん、あなたを傷つけようとしたのは分かったでしょう。あなたの後ろ姿をいつまでも追いかけたようには戻れないこと、分かったでしょう。どうかわたしのことを憎んで、顔を合わせたくないほど嫌いになって。
【空を飛べない背中】
Ash.