例えば、手入れの行き届いた髪とか。例えば、綺麗に整えられた爪とか。例えば、いつも潤ってる唇とか。例えば、近くにいくと漂う甘い香りとか。例えば、「黒尾くん」と俺を呼ぶ声とか。例えば、笑った顔とか。そういうの、全部が、俺は。

みょうじさんは、監督の知り合いの娘さんで、よくバレー部の練習に来てくれていた。別に指導するとかアドバイスするとかじゃあなかったが、マネージャー業務を手伝ってくれていた。女子マネージャーがいない音駒高校バレー部にとってはありがたい存在だった。「バレー部のみんなはすごいね、よく食べるしよく笑うしよく練習頑張るし、青春だなぁ」差し入れにもってきてくれたシュークリームを部員に配りながら、みょうじさんは言った。シュークリームなんて俺らだったら絶対に買わないような、可愛いというか、女子らしい…女性らしい、か。とにかく、俺たちでは買わないような差し入れに、部員達(特に山本)は喜んでいた。しかもそれなりに有名な店のシュークリームらしい。「黒尾くんもどうぞ」と俺にもシュークリームを手渡してくれたみょうじさんの爪は、綺麗に切りそろえられていて、薄いピンクで彩られていた。変に長く伸ばした爪やいろんな色でギラギラ彩られている爪より、こっちのが、俺は好きだ。シュークリームを受け取りながら「高校生男子ですから。うまいもんがあったら食べるし、嬉しい事があったら笑うし、練習も頑張りますよ」と返せば、みょうじさんは微笑んだ。まるで母親が息子を見るみたいな、時々父兄がするみたいな笑い方で、それが不満なような、くすぐったいような、妙な気持ちにさせる。シュークリームに齧り付きながら「シュークリーム、ごちそうさまです」と礼を言えば、みょうじさんは満足そうに頷いた。みょうじさんの付けている香水だろうか、甘い香りがする。「監督とコーチにも渡してくるね」と言い、何やら話しこんでいる監督とコーチの元に走っていく。その後ろ姿をぼんやりと見つめていれば、みょうじさんはくるんと俺の方に向き直る。見つめてたのがばれたかと一瞬ドキッとしたが、みょうじさんは楽しそうに笑って、「黒尾くん、口の端にクリーム付いてるからちゃんと拭いとかないとかっこ悪いよ」と言った。慌てて口の端を親指で拭うと、確かにクリームがついていた。舐めとるとほんのりと甘い。みょうじさんはもう俺の方を見てはいなかった。監督とコーチにシュークリームを渡しながら、笑っている。さっきまで厳しい表情で話しこんでいたふたりも、みょうじさんにつられたみたいに笑っていた。監督は嬉しそうにみょうじさんの頭を撫でる。さらりとした髪が揺れた。コーチもみょうじさんを見て俺たちに見せるのとはまた違う笑みを浮かべる。みょうじさんも俺たちの側にいる時よりも、なんというか、素っぽくて、俺は羨ましくなる。当然なんだと分かっている。みょうじさんは監督の知り合いの娘なんだし、仲が良くて当然だ。コーチとみょうじさんは年も近いし、仲が良くて当然だ。それでも、胸がもやもやするくらいに羨ましくなる。「クロ、見過ぎ」もぐもぐとシュークリームを食べながら研磨がそう声を掛けてくる。俺の方をじっと見ながら。「…別に見てねーよ」「…そう。みょうじさんのこと見てるように見えたけど」「俺がみょうじさんのこと見てなんになるんだよ」研磨はそれ以上何も言わなかった。俺は残ったシュークリームをほとんど噛まずに飲み込む。口の中に残る甘さも胃の中に押し込むように、薄めたスポーツドリンクを飲んだ。

「あ、…あー体育館に忘れてきたか…」部活が終わり、部員たちと話しながら正門を出たところで、忘れ物をしたことに気付いた。まあなんてことない普通のタオルだが。部活中使って、隅の方に寄せといて、…そのまま置き忘れたみたいだ。別に、明日の朝取りに行けばそれで足りるが、思い出してしまった以上、そのままにしておくのもなんとなく気持ちが悪い。それに、俺が取りに行くより先に誰かに見つかって忘れ物だぞーなんて言われるのもそれはそれで嫌だ。忘れ物は一応職員室預かりになるし。体育館が施錠されていれば諦めもつくが、体育館にはまだ監督かコーチが残っているはずだ。戻るのも面倒くさい、でもそのままにしておくのも気持ちが悪い。少しの間考えた後、俺は体育館に戻る決断をした。「悪い、忘れ物した。先に行っててくれ」俺の言葉に、部員からは「おー」とか「一緒に行こうか」とか、そんな言葉が返ってくる。部活中にみょうじさんが言った言葉を思い出す。なるほど、確かにこれは青春だな、とひとり笑いながら、俺は体育館に向かって歩き出した。

体育館にはまだ明りがついていた。監督だろうか、コーチだろうか。どっちにしろ、持ち物の管理はしっかりしろと言われそうだ。説教になったらどうすっかな、と考えながら体育館の扉をゆっくりと開く。開けた瞬間、汗やエアーサロンパスのにおいがする。いい匂いとは言い難いが、それでも俺はこの匂いが嫌いじゃない。みょうじさんの言葉を借りるのなら、青春、だ。中に入ろうとした時、ふわ、と甘い香りがした。差し入れのシュークリームみたいな、甘い匂い。部活中にも嗅いだ、みょうじさんの匂いだ。みょうじさんも残っているのか。じゃあ部室にいるのは監督だろうなと思いながら声を掛けようとすれば、「直井さんってば、くすぐったい」という声。くすくすという笑い声に交ざって聞こえたその声は、いつものみょうじさんの声じゃないみたいだった。黒尾くん、と俺を呼ぶあの声とは違う。僅かに開けた体育館の扉から、みょうじさんの姿を体育館に探してみる。それでも、俺の目に映るのは、体育館の奥、広く逞しいジャージ姿の背中だけだった。あれはコーチの背中だ。見慣れた、直井コーチの背中だ。さっきのみょうじさんの声は空耳か、と思った次の瞬間、コーチの背中に、白い腕が回された。「直井さん、もっと」甘い声が、体育館に響く。空耳でも何でもない。聞こえるそれは、みょうじさんの声だ。いつもと少し違う。みょうじさんの香水みたいに甘い、声だ。コーチの背中越しに、みょうじさんの顔が見えた。俺たちにまるで父兄のような笑顔を向けていたみょうじさんが、うっとりとした目で、コーチを見つめている。いつもつやつやとしている赤に近いピンク色に色付いた唇が、体育館の明かりで妖しく輝いているように見えた。みょうじさん。…みょうじさん、なのか。本当に。俺の知るみょうじさんとはどこか違うもんだから、目を逸らさなきゃいけないのに逸らせない。その場から動くことも出来ず、ただコーチの背中を見つめる。タオルを取りに来たはずなのに、俺はタオルを探すことも出来ず、ただただ体育館の隅でくすくす笑い合うふたりを見つめる。そうしているうちに、コーチの向こうにいる彼女と、ぱちりと目が合った。コーチの向こうにいたのは、ああ、やっぱり、みょうじさんだった。俺と目が合ったと言うのに、こんなところを見られていると言うのに、みょうじさんは照れる訳でも驚く訳でもなく、ただにっこりと微笑んだ。頬を紅潮させてはいたが、俺を見て、あの優しい笑みを、母親が息子を見るような笑みを、浮かべた。「直井さん」甘い、甘い声でコーチを呼び、次の瞬間に、みょうじさんは自分からコーチの唇に自分の唇を重ねた。顔の角度を変えたのは、わざとかもしれない。コーチからは俺が見えないだろう。けれど、俺にはみょうじさんの顔も、コーチの顔もはっきりと見える。みょうじさんからも、きっと俺の顔が見えている。見せつけているのかも、しれない。何も考えられなくなる。コーチの顔、と、みょうじさん、の、顔。どくりとする。自分に見せつけて、どうするんだろうか。見られて興奮する趣味でもあるんだろうか。それとも、この光景に情けなく体を熱くしながら絶望する俺を笑うつもりなんだろうか。わからない。何も考えられない。「直井さん、もっと」「まったく、…仕方ないな」「だって、直井さんのことが好きだから。これじゃあ、足りないです」合わさった唇。角度を変えて、吐息交じりに言葉を交わしながら、俺の目の前で、深くなっていくキスを見ていられなくて、俺はタオルもそのままに、体育館から逃げるように出た。

俺がみょうじさんのこと見てなんになるんだよ。部活中研磨に言った言葉が頭の中で繰り返される。さっきの光景も頭の中で繰り返される。繰り返されるその光景に、体が熱くなって胃の中のモン全部吐き出したい気持ちになる。「くそ、っ…」ああそうか。例えば、手入れの行き届いた髪とか。例えば、綺麗に整えられた爪とか。例えば、艶々した唇とか。例えば、近くにいくと漂う甘い香りとか。例えば、「黒尾くん」と俺を呼ぶ声とか。例えば、笑った顔とか。そういうの、全部が、俺は。俺はきっと。「好きだったんだな」呟いたところでもうどうにもなりはしない。脳裏にこびり付いたさっきの光景に、ただ絶望することしか出来なかった。

Ash.