「雨。雨降ってるよ、光(みつ)さん……」
「ええ……賢治さん、本当? それは残念だなぁ」

 今日の研究が終わって、ひと息つこうと食堂の入り口をくぐった矢先のことだった。
 窓辺に立ち外を眺める宮沢賢治先生と、その近くの席に座ったまま窓の外を眺める高村光太郎先生の会話が耳に届く。二人はどことなく悲しそうな声色で会話を交わしていた。どうしたんだろう、と思いながら食堂の奥にある厨房へ向かう。先ほどの会話が少し聞こえてしまったけれど、雨が降ってきたからか夕方に差し掛かった今は昼間より少し肌寒い。窓から見える外の風景は沈むような鉛色を滲ませていた。
 温かい飲み物をのみたいと思って、厨房で自分用のティーカップにミルクティーを淹れて食堂を出ると、ちょうど窓辺から室内に視線を向けた宮沢先生と視線があった。先生は辺りに星がちかちかと瞬くような明るい笑顔を浮かべて「なまえさーん!」と言い手を振っている。こたえるようにカップを持たない手で振り返せば、高村先生もこちらに視線を向けて微笑んでいた。その視線を受けた時、どきどきして咄嗟にほんの少しだけ逸らしてしまう。高村先生に対して憧れよりもずっと先にある淡い感情を勝手に抱いているからだ。再び静かに視線を上げれば、二人はこちらに向かってにこにこしながら手まねきをしている。どうやら二人の元に招かれているらしい。少しだけどきどきして窓際の席に行くと、高村先生が微笑みながら声を掛けてくれた。
 
「こんにちは、なまえさん。今日の研究は終わったのかな?」
「こんにちは。はい、さっき終わったので休憩しに来ました。高村先生と宮沢先生は、どうされたんですか?」
「僕たちは今日の夜の事を話していたんだ」
「今日の夜……に、何かあるんですか?」
「うん! あるよ、一大事なんだ!」

 わたしの問いに少し眉根を寄せた宮沢先生が答える。宮沢先生は窓辺から席に移って座ると、わたしにも座るように促した。お言葉に甘えてそのまま空いている椅子に腰をおろす。大きな丸いテーブルを囲うように高村先生と宮沢先生とわたしは席についていた。ティーカップをテーブルの上に置いて首を傾げれば、宮沢先生は大きな翡翠色の瞳をまばたきさせ、悲しげな表情を滲ませてこちらを見た。
 
「今日は、百年に一度の流星群が見える日なんだ……光さんとボクは前から楽しみにしてたんだけど、雨が降ってきたから無理そうだねって話していたんだよ」
「あ……そう言えば流星群のこと、少し前の新聞で読んだ覚えがあります。そっか、今日の夜だったんですね」

 いつもきらきらした明るい笑顔を見せることの多い宮沢先生が肩を落としていると、こちらまで悲しい気持ちになってくる。近くの窓に視線を向ければ夕方にしては真っ暗な空に、視界を覆うような雨が止めどなく降っている。この様子だと雨は夜通し降り続きそうだ。ここに来た時の、二人の悲しげな会話もこの事だったのだと気付き、ますます悲しい気持ちになる。
 
「流星群、すごく綺麗だろうなあ……」

 宮沢先生はそう言うと、再び窓の外をちらりと見ていた。自分の持つ錬金術の力で天気を変えられるなら今すぐにでも変えたいけれど、錬金術にその力はない。何も出来ないことをもどかしく思い、小さな雨音とともにしんみりとした空気を感じていたら、高村先生が「いい事を思いついたよ」と、空気を翻すような明るい声をあげた。宮沢先生もわたしもそれにつられて高村先生を見る。
 
「光さん、いいことってどんなこと?」
「うん、僕達だけの流星群を作ろうよ。このスケッチブックと色鉛筆で」

 高村先生の手前に置かれているのはA四程の大きさのスケッチブックと沢山の色が並ぶ色鉛筆。宮沢先生の手元にも置かれている。どうやって作るのか不思議に思って眺めていたら、先生はスケッチブックの表紙を捲った。
 
「スケッチブックに夜空を描いて、そこに流れ星をたくさん描こう」
「わあ、楽しそう!」
「賢治さんは自分のスケッチブックに描く?」
「うん! さっきまで絵を描いていたけど、それは思いつかなかったな」

 宮沢先生の手元にもスケッチブックと色鉛筆がある。どうやら二人はここで絵を描きながら過ごしていたようだった。
 二冊のスケッチブックは、開いた時は真っ白なページだったけれど、二人の手によって黒や紺色に染まり、あっと言う間にそれぞれの夜色がそこに広がる。
 わたしはその様子をわくわくしながら眺めていた。
 宮沢先生は童話や詩を書き、絵も描いて音楽も嗜む。高村先生も詩を書き、絵も描き彫刻もする。二人とも作家として、芸術家として多才だ。それを間近で見る事ができて、感嘆の息を洩らす。
 やさしく広がる夜空の上に、今度は金色や銀色で星が描かれていく。
 小さな星や大きな星、それから今夜見る事が出来るか分からない、流れ星。描き終えた二人の手元にはきらきらの星が輝く夜空が広がっていた。

「綺麗な夜空ですね!」
「えへへ、なまえさん、ありがとう! 流星群だから流れ星がいっぱいあるね」
「せっかくだから、叶うか分からないけど流れ星に願い事をしようか。賢治さんは何かお願いしたい事はある?」
「うん! 冬になったらおいしい焼きリンゴをたくさん食べたいなぁ」

 高村先生は頷くと、夜空に描かれた一つの流れ星の近くに、白塗りの小さな吹き出しを描いた。その中に宮沢先生が言った願い事が黒い鉛筆で綴られていく。高村先生は描き終えると、わたしに視線を向けた。
 
「なまえさんは? 何かお願いしたい事はある?」
「お願いしたい事……あ! あります、図書館に割り当てられる予算がもっと増えて欲しいです」

 今度は二つ目の流れ星の近くに白い吹き出しが描かれ、わたしの願い事が綴られていく。描き終える頃、宮沢先生は「光さんのお願い事は?」と訊ねていた。
 
「僕はやっぱり、彫刻に合う木と巡り会いたいかな」
「光さんらしいね!」

 宮沢先生の言葉にわたしもうんうん頷くと、高村先生は三つ目の流れ星の近くに吹き出しを描き、願い事を綴っていく。
 
「他にはまだあるかな?」
「うん、まだあるよ! 大人の絵本がもっとみんなに受け入れてもらえますように!」
「うーん、受け入れてもらえるかなぁ」

 高村先生は小さく首を傾げながら、四つ目の流れ星の近くに吹き出しを描き、願い事を綴る。宮沢先生に「なまえさんは?」と訊ねられ、「やっぱり、早く本の中の戦いが終わって欲しいです」と伝えると、二人は頷いた。そして、高村先生は、五つ目の流れ星の近くに白い吹き出しを描き、願い事を綴っていく。

「高村先生のお願い事は、他にありますか?」
「そうだな……アトリエの画材をもう少し増やしたいかな」
「光さん、毎日沢山の絵を描いてるもんね」
「うん」

 高村先生は頷くと、今度は六つ目の流れ星の近くに吹き出しを描き、願い事を綴る。
 スケッチブックの夜空に浮かぶ沢山の星や三人の願い事をひとつひとつを丁寧に眺めていたら、「けんちゃん、いたー!」と、ここにはいない人の声が聞こえてきた。顔を上げて振り返れば、新美先生が入り口に立ち、宮沢先生を呼んでいる。
 
「大変だよ! 乱歩さんがけんちゃんの新作コレクションを隠しちゃった!」
「えー! それは困るなぁ。ボク、行ってくるね」

 宮沢先生は眉を下げて椅子から立つと、スケッチブックと色鉛筆を持つ。そして、高村先生とわたしに謝り、先生は新美先生とともに急ぎ足で食堂を後にした。
 宮沢先生の背中を見送ると、やがて足音は小さくなり食堂の中は高村先生とわたしだけになった事に気付く。
 急に音が無くなって、雨音がさっきよりも大きく聞こえるのは気のせいだろうか。二人きりだと思うと急にどきどきしてしまう。どうしよう、何を話したらいいんだろう、と考えていたところで「なまえさん」と呼ばれ、高村先生を見た。
 
「三人の願い事を見ていたんだけど、なまえさんの願い事は仕事の事ばかりだね」
「そういえば、そうですね……」
「賢治さんと僕は個人的な願いを言っているけど、なまえさんが個人的に叶えたい事はないのかな?」

 ある。個人的に一番叶えたい願い事は、ある。
 それは、今わたしにその質問をしている高村先生と、仕事以外でも二人きりになる時間がもっと増えたらいいな、とよく思っている。今もどきどきして何を話したらいいか戸惑ってしまうけれど、本当は仕事以外で二人で話す時間が増えたり、一緒に街に出たい。だけど、本人を前にして言える勇気はこれっぽっちもなかった。特別な関係でもない、単なるエゴだからだ。勇気が出ないわたしの口から出た願い事は、本望とは違うものだった。
 
「個人的なお願い事は、おいしいケーキが食べたいです!」
「おいしいケーキが食べたい、だね」

 一番目の願いは伝えられる訳もなく、二番目の願いを伝えると、高村先生は頷いて七つ目の流れ星の近くに小さな吹き出しを描く。そしてその中に私の願いごとを書いている。丁寧に綴られる綺麗な文字をぼんやりと眺めていたら、文字を書き終えたところで、先生は「そう言えば」と言い顔を上げた。
 
「夏目先生から聞いたんだけど、街に新しいカフェが出来たんだって。そこのケーキは種類が多くておいしいらしいよ」
「そうなんですか! 気になります、行ってみたいです」
「うん、僕も行ってみたいんだ。よかったら、一緒に行く?」
「!」

 突然のお誘いに驚いて高村先生の顔を見ると、先生はやわらかな笑みを浮かべて「嫌だったかな?」と言った。まさか、嫌なはずがない! ここでぼんやりしてはならないと思い、力強く頭を左右に振れば、先生はやさしげな瞳を緩やかに細めた。
 
「じゃあ、決まり。一緒に行こうか」
「はい……!」

 窓辺からはさらさらと流れる雨音が小さく耳に届く。夜になれば厚い雲の向こう側では、たくさんの星がこぼれ落ちるのだろうか。夕食前の静かなひととき。驚くべきことに私の願い事は、目の前のきらきらした夜空に浮かぶ、七つ目の流れ星が叶えてくれたのだった。

Ash.