雨。
日曜日の夜だ、雨が降っているのに、わざわざ外に出てくる人なんていない。雨の音だけが響く街はお通夜みたいに重たい空気に覆われていて、雨に濡れて冷えた頬を、音もなくつたっていく滴と目尻の熱さが、『生きている』と実感させてくれる。
雨の日の海辺の静けさを、なまえは杜王町に来てから知った。
山に比べれば海辺は雨が少ない。ただあの年の夏は全然雨が降らなかった。その分、雨の日のことはよく覚えている。
『雨は好きだよ。街が静かになるからね』
雨の降ったとき、彼はそう言っていた。でもその記憶は科白が文字となって浮かぶだけで、なまえの頭の中で彼の声で再生されることはない。もう『薄れて』いっている。それがわかっただけで、雨の中ここに来た意味があったのかもしれない。誰も手入れをしなくなって、すっかり風情が無くなった庭の中央で、なまえはそんなことを思っていた。
「……なまえ」
少し後ろに立っていた仗助は、なまえが振り返ったことで、やっと声を発した。
「誰かと思ったら、仗助くんじゃあないの」
「……露伴みたいな言い方、止めろよな」
『誰かと思ったら、クソッタレの東方仗助じゃあないか』。確かに言いそうだ。いつものように笑うなまえを見て、仗助は息をついた。
「相変わらず仲悪いよねぇ」
「っるせ、ほっとけ」
二人は全然変わらない。仗助の髪型も相変わらずだし、露伴先生のひねくれ加減も相変わらず。なまえとしては、いい加減仲良くすればいいのにとも思うけれど、彼等にとってはそれくらいの距離感が丁度いいのだろう。
仗助は黙って、自分の傘にびしょ濡れのなまえを入れる。
「お前の親に心当たり無いかって訊かれたんだよ。こんな時間に外に出るなら、声かけてから行けよ」
なまえは溜め息をついた。
「……両親はあの人のこと知らないし、理由も無いのに出かけるのは、それはそれで心配させるもの」
大体なまえの親は心配性なのだ。来年からは大学生だし、夜とは言え一人で外出することなんて普通だろうに。とは言えなまえだって変に心配させたくはない。
でも。
ここに来るのは止められない。この家は吉良吉影の家だったから。
庭から家の中をそっと覗いてみる。家具の無い和室は酷く殺風景だ。住民はもういないのにさして荒れていないのは、不動産会社とかが管理しているからなのだろうか。わからないけれど、なまえからすれば、変わったのは庭が美しくなくなったことと、『吉良』の表札が取り外されたことくらいだ。
時折訪れて、彼のことを思い出す。明るい気持ちにはならない。それでも、なまえの中で、これはある種の儀式のようなものになってしまっていて、止めることはできないのだ。
「……なまえ、おれさ、」
「いいよわかってる」
なまえは次に続く言葉がわかって、遮ってしまった。仗助が謝るなんて筋違いなのだ。吉良は裁かれるべきだった。死んで当然のことをした。それなのに気を遣われるのが嫌で堪らないのだ。その青い瞳に、自分達のしたことへの疑問なんて少しも抱かないでほしいのだ。仗助は間違ってなんかいないのだから。
「……もう終わったことだから」
仗助は開きかけた唇を閉じた。
今となってはわからない。何故吉良が自分を殺さなかったのか。客観的に見てなまえの手は美しいのに。ただ何となく、わかっている。『気まぐれ』という理由にしておけば、なまえはこれ以上傷つかなくて済むということが。
「私ね、今も思うんだ。不謹慎だけど、どうして私が出会ったのは、あの人が人を殺しているときにじゃなかったんだろうって。運命って酷いものだよね」
「…………ああ、そうだな」
仗助は目を逸らさない。青い瞳になまえの顔が映っている。『気を遣わせること』を言ってしまったなまえは少し後悔した。なまえは時分と目を合わせたままでいられる仗助が羨ましい。ずっと前から。
「あと、ここに来るのはやっぱり止められない」
「……そうか。親にはちゃんと説明しろよ」
「うん、わかった」
止められない。なまえの名を呼ぶ声や、なまえを映す藤色の瞳や、なまえに触れる大きな手のひらの温かさを、忘れてしまうまで。全てが心の底に沈んで眠ってしまうまで。
「でも満足したから、今日はもう帰るよ」
と言って、なまえは仗助の傘の影から出る。仗助がなまえのために持ってきたもう一本の傘を差し出したけれど、受け取らない。
「濡れて帰る」
歩き出したなまえは振り返って、少し笑った。
「私も雨、好きだから」
Ash.