闇。

 気付いた時、私の視界を覆っていたのは闇だった。
 その中で、薄ぼんやりと光る物を見つけ、目を凝らす。

「……アソーギさん?」

 光に照らされていたのは、イギリスでは珍しい東洋人の黒髪だった。
 それに見慣れた白い制服を身に着けているとなると、思い当たる人物は一人だけしかいない。

 こんな暗闇の中で何をしているのか。
 不思議に思って声をかけた私を振り返った彼の姿に思わず息が詰まった。思考が霧散し、そして、鈍くゆるやかに一つの事実へ集中にしていく。
 彼の真っ赤に染まった服、そして、その手に持たれた心臓に。

 人の体内から引き抜かれただろうに、それはドクドクと脈打っている。その奇妙な光景から目が離せない。
 自分の心臓が激しく体内に血液を循環させ、耳鳴りがするのを感じ、息苦しさに喘ぐように息を吸い込む。

「それ、」

 何とか空気と一緒に吐き出した言葉は、頼りなく掠れていた。アソーギさんは私を見たまま、表情ひとつ変えない。
 それが、逆に私の鼓動を更に高鳴らせる。

「……何を驚いている」

 そんな私の反応に、アソーギさんはひとつ息を吐き出し、呆れたようにそんなことを言った。私からすれば、誰かの心臓を手に血まみれで立っている彼がどうしてそんなに落ち着き払っているか分からない。

「俺が心臓を手にしていることなど前から知っていただろう」
「何を言っているんです!? それは誰のものです? 一体、どうしてそんなことをしたんですか!」

 彼の言葉が引き金だった。
 先ほどまでの息苦しさが嘘のように呼吸が出来た。硬直していた筋肉もすんなりと動く。
 怒りに任せて駆け寄り、彼に掴みかかると「君のものだ」なんて訳の分からないことを言う。

「はぁ!?」
「これは君のものだ。そんなこと、君はとっくに分かっているだろう」
「そんな訳ないじゃないですか! それなら、今、」

 そこで、唐突な息苦しさを覚えた。
 視界がぐにゃぐにゃと歪んで、自分が今、どうなってしまっているのか分からないまま呼吸を繰り返す。
 いや、私は今、息をしているのだろうか。

 脳が訳の分からないことを考え出す。思考がまとまらない、酸素が足りないのだと思った、このままじゃ、私、

――――
―――

 雨。

 意識が覚醒してすぐ、雨が降っていると思った。
 窓に水滴が叩きつけられる音が意識を覚醒させたのか、はたまた、先ほどまでの異常な光景を精神が拒絶したのか。それは分からないけど、私は目を覚ました。

「……夢」

 額に浮かぶ脂汗を拭いながら、うめくように呟いた。先ほどまでの息苦しさがまだ残っているような気がする。
 けれど、いつまでも悪夢を引きずっている訳にもいかない。憂鬱な気持ちを深呼吸とともに切り捨て、顔を上げた。

「ああ、起きたか。みょうじ刑事」

 そして、あまりにもタイムリーに先ほどまで夢に出てきていた男に声をかけられて、びくりと肩が震えた。
 振り払った筈の夢の残滓が息苦しさを思い出させる。

「アソーギ、さん」

 そのせいで掠れる声で名前を呼ぶ。そんな私をアソーギさんは呆れたように半目で見て「こんな場所で居眠りなんて、危機感が足りないんじゃないですか?」と言った。

 こんな場所。
 そう言われて辺りを見回して、自分が署内の資料室で寝てしまっていたことに気づく。

「……すいません」

 ここ最近、仕事に追われて寝不足だったのだ。
 咄嗟に言い訳が出そうになったけれど、それなら仮眠室に行け、と至極真っ当な返答が返ってくるのが分かっていたから殊勝に返事をしておく。

 一体、どれだけ眠ってしまっていたのか。凝り固まった筋肉を伸ばすように、グッと腕を持ち上げる。

「亜双義さんは、どうしてこちらに?」
「書類を持ってくるように頼んだ刑事が戻ってこないと、バロック・バンジークスに言われてな」
「……すいません」

 私のせいだった。

 そう言えば仮眠を取りに行く途中にバンジークス検事に書類を持ってくるように頼まれて、それが終わったら仮眠を取ろうと思っていたのだ。
 資料が揃っているか確認しようと席についてからの記憶があやふやだから、おそらく途中で力尽きたんだろう。

「あ、頼まれてた資料は……」
「ああ、これだろう」

 言いながら、亜双義さんは赤い手記を手にした。それは資料として保管されていた証拠品で、手にしたとして何の不思議もない。
 なのに、ああ、捕まってしまった、と思った。

 夢の中と同じように鮮やかな赤を手にし、私を見るその姿に、バクバクと心臓が騒ぎ出す。
 この脅迫観念に近いほど強く感じた運命をどうするのか、それはきっと、私の次の言葉に託されている。

Ash.