「どっか行きたい」
「どっかってどこ」
「誰も俺を知らないとことか」
今だって仙道のこと知ってる人は大していないよ。高校バスケファンくらい。そう思ったけど言わずに、ふぅんで済ましたあの春の日の会話をまだ覚えている。その時はまたおかしな事言ってるなくらいの認識で、そうは言ってもこの先日本中が彼のことを知るようになるのだと根拠のない自信を持って彼の会話を聞き流していた。なのに、そのあと高校を卒業した彼はすぐにどっかに行ってしまった。「行ってくるね」「どこに」「どっかに」「どっかって」「さあ、まあ待てたら待ってて」最後の会話はたしかそれだった。ふたりの終わりがいきなり過ぎて涙も出なかった。あの野郎。
それから、かれこれ8年。もうすぐ9年になる。夢を見ていた女子高生は酸いも甘いも知るアラサーに片足突っ込んだ。大学を出て就職して、それなりに順調。今日のように残業で遅くなることもあるし、華金をエンジョイしたりもする。彼氏も居たり居なかったり、今は居ないだけ。別にあの春の日の会話と最後の会話を忘れられないのは、彼を待っているからではないはずだ。でも彼の言う、待てたら待っててというのは曖昧な束縛だ。その言葉たったひとつで私は試されているような気がする。待てたら、というのは私の限界まで待て、という意味で、私が死ぬまで待てるなら死ぬまで待てということになる。高校時代チームのキャプテンを任されてもマイペースを貫いた男だ、死ぬまで貫いても不思議じゃあない。私はそんな男に心底惚れたのが運の尽きということか。馬鹿馬鹿しい。私は素直に彼を想い続けたりはしない。というか悔しいからしてやらない。彼のことは待っていないけれど、もし例えば死ぬまで待ってろと言われていたなら死ぬまで独身を貫くことは出来た。でも彼は"待てたら"としか言わなかったから私は待たない。でも私は案外しつこい女なので、彼が突然現れて「待ってんだ」と言えばそうだと言う女だ。それくらいの図々しさは持ち合わせている。だって現に2年前だって当時の彼氏のプロポーズを断ったのだからそういうこと。8年は私の中で許容範囲らしい。彼はいつまで私を試せば気が済むのだろう。
彼がサヨナラを告げて9回目の春は寒かった。地域によっては雪もちらつくことがあるとかないとか。そんなことは露知らず、薄手のトレンチコートで家を出たから寒くて仕方が無い。前を手で閉めながら家路を急ぐ私がコンビニのガラスに映った。何だか滑稽に見える。嫌だなと思いながら更に足を早めると、突然電話が鳴ったからビックリして立ち止まってしまった。こんな時間にまさか急いで提出した書類にミスとかじゃなかろうなとビクビクしながら電話を取り出す。相手は見慣れない番号。とりあえず怒りの電話でない事に安心して、特に何も考えずに通話ボタンを押した。「…もしもし」「俺」たった一言、されど一言。今度は上からタライで水をかけられたように体全体が固まった。俺、ってそんな詐欺じゃないんだから、なんて馬鹿みたいな冗談も浮かばない。「仙道」遠い昔に何度も呼んだその名を口にすると、魔法から溶けたように心臓が動き出した。「正解」楽しそうな彼の声が夜の街に響いた気がする。実際は響いていないけど。「会いたい」彼が言う。くっそう、と唇を噛んだ。会いたいなんて私が何万回言っても足りない台詞だボケ。「家どこ」彼が当たり前のように尋ねるから、正直に高校の近くだと伝えた。分かった、と言って切れた電話が何を意味するかなんて馬鹿な私でも分かる。あいつ馬鹿だ。
再び動き出した足は、前よりもずっと軽く速いように感じる。だって無意識に私の息は切れ始めているのだから多分。待ってないとか待ってるとか馬鹿馬鹿しいことだ。でも彼はこれから私に「待ってた?」と聞く。だから私は白白しく「待ってたよ」と言うだろう。だって電話番号は昔のままで、ひとり暮らしを始めてからずっと暮らすあの家はわざわざ陵南の近くを選んだ。もしも彼が私を思い出したら、この街にふらりと帰る事があったなら、偶然だってなんだって会えたらいいなという下心が丸見えじゃあないか。実際そうなのだから弁明する気は無いが、そのくらい心底彼に惚れたということは分かってほしい。私は今からそれを言おう。待ってた、結局貴方が好き。伝える言葉はそれで充分なのだ。私も彼も、きっと大人になったのだから。
Ash.