お気に入りの香水が今日終わった。
なくなりかけていることは、わかっていたけれど、まさか今日なくなるとは思っていなかった。ふと、中になにも入っていない瓶に窓から入る光を当てると、反射してきらきらと輝いた。ほんのりと香るシトラスの匂いがとても好きで、一目惚れして買ったのを今でも覚えている。瓶を元の場所に戻して、鏡をみてみるとなんとなくやるせない顔をしていた。なんで、こんな顔しているんだろう。こんな顔してちゃいけないとかぶりを振る。そして、顔を軽く叩いて気合を入れ、鏡から目線を逸らして鞄を手に取った。だって、今日は引退の日なんだから。
飛び交う黄色のボールをぼんやりと見つめながら、今日で引退だなんてまったく実感が湧かなかった。その場に立ち尽くしている私の頭にポンっとなにかが載せられる感覚がして、振り返るとそこには幸村がいた。
「ゆ、幸村」
「なに サボってるんだい」
「サボってませんー! 幸村だって、ここで何してるの?」
「みょうじがサボってるの見つけたから注意しに来たんだよ。」
「だからサボってないってば! 早く戻りなよ。わたしもジャグ洗いにいかなきゃ」
「ハハ、そうだね。 君の言う通りだ。もう戻るよ。」
君も頑張ってと言いながら私の頭を撫でながら幸村はその場を去っていく。その後も、いつも通り練習は続いたし、わたしもいつも通りマネージャーの仕事をした。でも一つだけ、いつもと違うことがあった。練習が終わり、部員みんなが集合した所で、2年から寄せ書きが渡されたのだ。部員1人ずつに渡すのは人数が多いからと、代表して幸村に赤也から全員分の寄せ書きが渡された。その時、赤也はボロボロ涙を流していて、思わずもらい泣きしてしまう。3年のマネージャーは、私一人しか居なかったから2年のマネージャーから直接花束と寄せ書きをもらった。後輩もわたしと同じく既に泣いていて、お互い号泣しながら抱きしめあった。今日で本当に終わりなのだ。そう、その時初めて実感した。
コトリ、と机にペンを置く音が部室に響いた。いま、部室にはわたししか居ない。マネージャーとして最後の仕事である部誌を書き終え、それを棚に戻そうと立ち上がった。その棚の隣には、所狭しとトロフィーが飾られているガラスケースが置かれている。ガラスケースの中を眺めるとその中には、準優勝と刻まれた今年のトロフィーももちろん飾られていた。その隣には、去年、一昨年のトロフィーも置いてあり、その時の集合写真もそれぞれ近くに飾ってあった。写真には、今よりも少し幼いわたしたちが写っていて、本当に色々なことがあったなあと懐かしさを感じた。そしてポッカリと胸に穴が開いたような感覚が胸を占める。じんわりと鼻が暑くなる感覚がしてきて、また泣いてしまうと気付き、ガラスケースから離れ、部室を見渡した。少し古びたロッカー、少し大きめの机、座るたびにギシギシと音がするパイプ椅子。今にもそこでレギュラーとマネージャーの打ち合わせが始まりそうなくらいいつもと変わらない風景が広がっていた。明日から、どうなるんだろう。そう思った瞬間、幸村の顔が浮かんだ。引退しちゃったら、関わらなくなっちゃうかな。クラスだって違うだし、ましてや委員会も違う。幸村は高校でもテニス部に入るのかとか、もはやそのまま立海の高校に来るかすらわからない。もし、そうだったら
「嫌だなあ、」
「なにが?」
声のする方向を見ると、そこには幸村が立っていた。驚きのあまり、声が出なくて呆然としているとずんずんと幸村が近付いてきて、わたしの頬に手を添える。幸村の手は冷たくて、ごちゃごちゃになっていた頭の中を整理するのにちょうどよかった。
「まだ泣いてるのかい?あれだけさっき泣いてたのに」
「泣いてないよ、」
「泣いてるじゃないか。ほら」
そう言いながら親指でわたしの頬の辺りを優しく拭った。そのとき、初めて自分が泣いていたことに気がついた。気が付いたことがいけなかったのか、ぽろぽろと涙が止まらない。零れ落ちる涙を拭ってくれる幸村は、ぼんやりと滲んだ視界の中ですごく優しい顔をしてわたしをみている。そんな幸村をみて、胸がぎゅうっと締め付けられたように苦しくなった。貴方のせいで泣いたんだよ、なんて言えずに黙ってひんやりとした手に猫のように擦り寄った。
「ねえ、教えてくれないのかい?」
子どもに語り掛けるような優しい声でわたしにまた聞いた。そんな幸村の声はわたしにとって魔法のようで、胸の奥に閉じ込めておいていた想いを自然とすべてさらけ出してしまう。
「引退したら、もう幸村と関わることがなくなっちゃうのかなって考えちゃって、」
「うん。」
「それから、もちろん立海の高校に進学するとは思ったけど、もしかしたら外部に行っちゃうとか。あとね、」
言葉を続けようとした瞬間、わたしとは違うシトラスの香りに包まれる。いきなりのことに混乱しつつも、一方で不意に香水を買った時のことを思い出した。幸村がいつもシトラスの香りを漂わせていることが香水を手に取ったとき、ふと頭の中を過ぎり、気が付いたらレジまでそれを持って行っていたのだ。
「俺は、みょうじが好きだよ。」
「は…?」
拍子抜けするくらいあっさりと言い放った。幸村の放った言葉に理解が追いつかず、驚きのあまりなにも言えないわたしに幸村は楽しそうな声をあげて笑う。さっきから幸村に驚かされているばかりだ。ぐるぐると色々な感情が頭の中で渦巻いていて本当に現実なのだろうかと疑い始める。
「信じていないようだけれど、本当だよ」
「し、信じてないわけじゃ」
「顔に出てるよ」
またわたしの頬に手をあてて、幸村はうっとりと微笑んだ。だから、引退しても俺は今以上に君と関わり続けるつもりだったけど?と言いながらわたしを見る幸村の目は、とても優しげで、思わず顔を赤くしながら下を向いた。
「ねえ、返事は?」
「返事って、」
「うん。そう、返事。俺のことどう思ってる?」
わたしを蕩けさすような甘い声で囁いてくる幸村は狡い。わたしが幸村のことが好きだって絶対に分かってこうしてるんだ。そんな狡い幸村に仕返しのつもりで、わたしは幸村の首に手を回して耳元で言った。
「好きだよ。ずっと」
そう言えたとき、ようやく胸のつかえが落ちたような気がした。わたしは、大好きなシトラスの香りに包まれながらもう1度泣いた。
Ash.