彼女は言った、俺の事が好きだと。喋った事もないよく知らない彼女が言うには、一目惚れらしい。
俺は言う、「今は部活に集中していたい」と。何度も言った事のある決まり文句だ。
それでも好きだと食い下がる人間には、みゆみゆが居れば十分だと強く断言すれば、落胆か嫌悪か、その表情は様々に引き下がって行く。俺が今まで経験した事案ではそうなる筈だった。けれど彼女は他の人間とは違った。
「貴方に譲れない程好きなものがあるように、私は貴方を好きでいたい。応援させて欲しい。」と、あまりにも真っ直ぐ、懸命にぶつけられた言葉に少し気押しされて、「応援だけなら」とつい頷いてしまった。

入学してから半年、少し肌寒くなる季節に新しいマネージャーとして入部して来た彼女は、その言葉通り、俺のすぐ側で応援し続ける事に意義を見出したようだった。熱のこもった応援は部でも火付け役となり、次第に彼女は他の人間からも必要とされていった。
特に、レギュラーをもぎ取った際での感極まった姿は今でも俺の胸を熱くさせる。俺より感動してどうすんだ、と投げるような言葉にも臆せず目を赤くするみょうじに、俺の情はゆるやかに、確実に傾いていた。

俺にとって最初で最後のWCでも、終わった、と理解すると同時に彼女はどんな表情をしているかを無意識下で確認した。ただそこには、当たり前のようにみょうじが居ただけだった。
いつものように目元を赤くして、眉と目尻を下げ、笑う。感動した、と。結果が敗北に終わり、いよいよ失望しただろうと懸念していた自分が馬鹿だったのだと思った。
記憶の中でのみょうじはいつだって、真っ直ぐに、白熱する俺達を思っていた。
その事に、最後の最後でようやっと気が付いた俺は、大馬鹿者だ。



担任は言った、「今回のテストは内申点には響かないから」と。

WCを終えた事も、部活を引退した事も。学校に行っても行かなくても怒られなくなった事も、もう随分と前の事のように感じる。実際は、自由登校期間になってからまだ一週間も経っていない。
俺は部活にも学業にも手を抜いていなかった為に驚く程スムーズに推薦が決まり、他の奴らが忙しなく受験勉強をする中でも比較的余裕がある方だった。
そして、目の前で今回のテスト範囲を確認しているみょうじも、確かAO入試で通知を受け取り、早々に受験戦争から抜け出していた筈だ。「一緒にテスト勉強をしよう」と連絡が来た時は冗談と思い適当に流したが、事実、みょうじは俺の家に押しかけて見せた。
親も弟も出掛けていると言えば、じゃあ丁度いいね、と笑って靴を脱ぎ、俺の部屋にある推しメンの写真を挟み込んだガラス製の机の前に迷う事なく座る。何が丁度いいんだ。一連の動作はルーティーンのように滑らかで、俺が言葉を挟む余地もなかった。万が一の為部屋を片付けておいて良かった、と内心思うあたり、俺もこいつに随分と毒されている。
それにしてもみょうじの担任は「内申点に響かない」と伝え忘れたのだろうか。そう思って聞いてみれば、「知ってるけど」と逆に呆れ顔で返された。なんだこいつ。よっぽど轢かれたいらしい。

「皆んなが受験勉強に一生懸命でテスト勉強に手が回らないって事はさ、その間に私がしれっと頑張れば順位が爆発的に上がるんじゃないかと思って。」
「そんなのマジモンの実力って言わねぇだろ。」
「その栄光が偽物だっていいの、出る数字が全てだから。それに、やらなくていいって言われると逆にやりたくなるでしょ?高校生活最後のテストでぐらい、良い思いしてもいいかなって。」

成る程、良い思いがしたい、っつう所が本音だろうな。成績に残らない、無意味だと言われてやる気を出す所も少し天邪鬼なみょうじらしい。
わざと聞こえるように息を吐いてみせる。せめてその姿を見守ってやろうかと脇にあるベッドに腰を下ろしてぼんやりと眺めていると、ノートに向けられていた丸い目がこちらを向いた。

「教えてくれないの?」
「ハナからそれが狙いかよ。」
「木村くんから聞いたんだけど、宮地教師目指すんでしょ?私を生徒だと思って教えてみてよ。」

ホイホイ個人情報を教えやがって。木村には後で軽トラの刑を下す事にした。
みょうじは教えて宮地先生、とおどけて見せる。先生、とその響きにむず痒いようななんとも言えない妙な気持ちを抱いた。成る程、案外悪くないな。
よし、と声に出して隣に移動すれば、みょうじは嬉しげに目元を緩め、態とらしく囃し立ててみせる。

「まず目標から決めるか。前回の点数は?」
「ええっと……へへ、35点。」
「ふざけてんのか。」
「だって公式とかどれ使えばいいかわからなかったんだもん。」

私文系だし、前回の古典はクラスでトップだったんだよ、と言い訳のようなものを誇らしげに語った。その事自体は確かに凄いけれど、今目の前にあるのは数学の教科書なのでなんの関連性もない。褒めて欲しいという風な雰囲気を出すその姿に、勉強が終わったら褒めてやるよ、とおざなりに返した。

理解できない、と言った公式に印をつけ、根本が理解できるように噛み砕いて説明してやる。自分の頭で理解できている事を理解出来ていない人間に伝える行為は中々に骨が折れる。
何度か自作した問題の中で、1番ややこしい覚え方をしていた公式を利用して出した数字に丸をつければ、限界まで動かしていた頭が解放されたような達成感すら感じた。
みょうじは大きく息を吸い込むと「やった〜!」と両手を上げ後ろに倒れ込む。

「私高校生活でこんなに頭使ったの初めてかも。」
「だから35点なんかとるんだよ。」
「うわ〜思い出したくなかった。でも今回は自信しかないよ。」
「俺の後ろ盾があるからな。これで90取れなかったらマジで絞る。」
「きゅっ、90?90は無理じゃない?35から90は流石に高飛びしすぎてない?」
「無理だろうなぁ。まあ目標は高いに越した事ないだろ。」
「ひゃ〜ストイックな宮地先生は自分にも生徒にも厳しいんだなあ。」

寝転がったまま無防備に笑うみょうじの姿を横目で見て、すぐに目を逸らした。互いに真剣だった為に気づかなかったけれど、思いの外距離が近い。胡座をかいた俺の膝にみょうじの太腿が触れそうだ。
スカートから伸びた足を思わず見てしまいそうになる劣情をぐっと堪えて、誤魔化すようにノートを手に取る。俺の角ばった字に寄り添うように解き書かれた丸い字を見て、また湧き上がるような妙な感覚が押し寄せた。くそ、なんなんだ。
言い得ようのない感情を持て余しながらそれとなく机の上を片付けていると、寝転んだままの体制で「ねえ」と、みょうじが俺を呼んだ。

「覚えてる?最初に会った時、私が宮地の事好きだって言ったの。」

日常を語るかのような、穏やかで、静かな声だった。
見ないようにして来たものを緩やかにこじ開けられたような気がして、体に力が入る。みょうじは体を起こすと、その場から動かない俺の顔を覗き込むように机に凭れかかった。

「私が今、改めて、宮地の事好きだって言ったら、どうする?」
「……どうって」
「宮地にとって、バスケが恋人みたいなものだったでしょ。全部取り払った今、もう一回好きって言ったらどうするのかなって気になって。」

無理に問い詰める訳でもなく、それでいて答えないといけないような雰囲気にどう出るべきか考えあぐねていると、俺の顔を覗き込むみょうじの睫毛が震えた。泣くのか、と思った。けれどそのまま伏せられた瞼にどこかほっとする。

「私ね、やっぱり諦めきれないの。このまま側に居れるだけでいいって思ってたけど、やっぱりだめみたい。宮地の側にいて、宮地の事を知っていく度に、好きが濃くなってくの。好きがずっとある。宮地の中で、特別な女の子は私がいいって思っちゃうんだ。」

後半になるにつれて、自制を含んだ言い方になっていったように思う。少しだけ押し黙ると、ぱちりと目を開いて体を起こした。「だからね、」といい事を思いついたという自信を含んだ声色で切り出す。「賭けてみようと思って。」
「賭け?」そう聞いた俺の声は少し緊張していた。その事を気にする様子もなく、みょうじはひとつ頷いて飄々と続けた。

「もし今回のテストで90点以上取れたら、宮地の事諦めない。」
「……取れなかったら?」
「もう付き纏ったりしない。こんな風に家に上がり込んだりも、しない。宮地断ちするよ。」

「卒業もするし、丁度いいね」と不自然な程淡々と続けるみょうじの言葉に、ぐる、と思考が巡った。

俺は、みょうじの事が好きなのだろうか。
確かに、情が移ってしまっている事は自覚している。部活、勉強、趣味に没頭していた為に恋愛ごとの云々に疎い事も、不本意ながら理解しているつもりだ。こいつの好意の上に胡座をかいていた事だってある。それなのに、こんなにも真っ直ぐ"好きだ"といえるものなのか。
俺は、こいつの好意に、期待に、応えることができるのか?

曖昧な答えしか浮かばない問い掛けに、結論を絞り出した所で解決はしないんだろう。
けれど今、ただひとつ、確信を持って言える事がある。

「ほら、教科書開け。」
「え?」
「90以上取るんだろ?今回特に出そうな所教えてやるよ。」

俺は、みょうじが側にいない未来を想像出来なくなっているらしい。

どうせわかってねぇんだろ、と言えばみょうじは面食らったように瞬きをしてから、思い出したかのようにじわりと目元を赤くする。眉と目尻を下げると、心底嬉しそうに頷いた。


Ash.