一週間も前から、ずっとバケツをひっくり返したような大雨が続いている。廊下を歩きながら、梅雨の時期である五月は何度経験しても好きになれそうにないなと加州は思った。主のために綺麗にした髪が湿気で上手くまとまらない事が気に食わないのだ。それに、晴れの日より雨の日の方が好き、雨の日は一人静かに部屋で過ごしたいという主の言葉も。なんだよ、雨の日だろうと俺は主と一緒がいいのに。
「あーるじ」
雨音を聞きながら今日も今日とて締め切った部屋の中で一人、主は仕事をしてるのだろう。仕事熱心なのはいい事だけど、ずーっとそうやって書類と睨めっこしてたら気分が滅入っちゃうよ。そんな主を見かねて部屋の外へ連れ出そうとやってきた加州が何度呼びかけても主は全く反応しなかった。ねえ主。あーるーじ。少し強めに言っても、可愛いっ子ぶりっ子したって主は加州へ振り向かず机に向き合ったまま。
「ねえ主、もしかして怒ってる?」
いつもなら加州が部屋に入って来ただけで嬉しそうな笑みを見せてくれると言うのに、今日は完全に無視を決め込んでいる。そんな主を見て、加州は主が返事もしたくない程に怒っているのだと思った。えー、俺主を怒らせるような事したかなあ。少し頬を膨らませ最近の自分について考えてみる。…もしかして主の分のお団子を食べちゃったから?それとも最近の刀装作りで炭ばかり量産しちゃうから?もしかして昨日の夜主の布団に勝手に潜りこんだから?あ、もしかして一人が好きって言ってたのに突然来ちゃったから?ごめんね主、俺いくらでも謝るからこっち向いてよ。
「…主?……泣いてるの?」
ごめんねと謝る加州と、それでも何も言わない主。どうしようもなくなって加州が主の顔を覗き込むと、驚く事に主は静かに涙を流していた。肩を震わせさめざめと泣く主にさすがの加州も驚き、困り果てる。今まで主の泣き顔を見た事がなかったからだ。主は人前で泣く人ではなかったし、初期刀である自分が見た事がないのだからきっと本丸内の誰も主が泣く姿を見た事がないだろう。
「泣かないで、主、泣かないでよ」
始めて見る弱り果てたその姿に耐えきれなくなった加州はソッと後ろから主を抱きしめた。それでも主はそんな加州の優しさを突き放すかのように無視をする。ひどいなあ主は。俺が後ろから抱きしめてるっていうのにこれも無視しちゃうんだ。俺が主に冷たくされたら悲しくなる事知ってるくせに。
「ねえ主、俺はね、主の笑顔が好きなんだよ」
呟いたそれは主に届いただろうか。泣き続ける主が何かを強く握りしめている事に気が付いた。震えるその手に自分の手を重ねてみるも、固く両手で握りしめられたそれが一体何なのかは分からない。清光、清光と主の愛おしい声がする。その手に握られていたのは見間違える事なんて絶対にない加州のお守りだった。数多の出陣に持ち歩くお守りは既にボロボロでところどころ赤い糸で補強してある。綺麗好きの加州がどうしてこんなボロボロなお守りを持っているのかと言うと、新しいものを買うと言う主の言葉を加州が頑なに拒否しているからだ。何故ならそのお守りは、初めて出陣したその日ボロボロに負けて帰って来た加州を見て、主が泣きながら万屋で買ってきた物だから。審神者に就任して間もなくで、まだ右も左もわからないくせに加州の為にと大泣きで。それをどうして捨てられるというのか。
「なんでそれ主が持ってるの?…ああ、俺今日忘れて行ったのか」
それほどまでに大切にしていたお守りがどうして主の手元にあるのか。加州は主が泣いている事も忘れて懸命に考えた。それは常に肌身離さず所持している物で、同室である大和守安定にも触れさせた事はないというのに。そうだ、俺は今日朝一出陣の日だったのに、主の布団で一緒に寝ていて寝坊したんだった。それで慌てていて、きっと主の部屋に置き忘れてしまったのだろう。そう考えると、主が加州のお守りを持っている事に納得が行った。俺忘れて行ったんだね、拾ってくれてありがとう。そう手を伸ばすのに主はやっぱりお守りを握り締めて、清光、清光と加州の名を繰り返すばかり。おかしいな、俺はここにいるのに。どうしてそんなに切ない声で俺の名前を呼ぶの。
「あるじ、」
その時、自分を纏う風の流れが変わった。かろうじて形を保っていた本体の軋む音が脳内で聞こえたのだ。もう知らないふりをしている時間はない。悟った加州は唇を噛みしめる。加州にはどうして主が自分の声に全く反応しないのか分かっていたし、どうして今自分がこうして主の元にいるのかも分かっていた。加州が心から願ったからだ。主に会いたいと、主の傍に行きたいと、強く、強く。曲がりなりにも神の端くれである加州の願いは聞き届けられた。だけれど主には加州の姿どころか、声も体温も何もかもが届かない。それでも会いたいと願った。エゴでもいい、どうしても伝えたい事があったから。
「主、本当は俺ね」
言わなかったけど、言えなかったけど。本当の本当は出会ったあの日からずっと主の事、審神者としてじゃなく、一人の女の子として大好きだったんだよ。俺は刀だから、主と同じ人間じゃないから、だからどうしても言えなかったんだ。主の事を愛してるって。それでも愛してたんだよ。どうしようもなく、頑張り屋で強がりで、でも人一倍寂しがり屋な主の事を。誰よりも愛していたんだ。あの五振りの中から俺を選んでくれてありがとう。俺を傍に置いてくれてありがとう。最後の最期まで俺を特別扱いしてくれてありがとう。俺は結局何も伝えられなかったね。ありがとうも、ごめんねも、…愛してるも。
「…もう時間切れみたい」
主、主。大好きな俺の、何よりも大切で愛しい主。ずっと一緒にいるって約束したのに、約束守れなくてごめんね。悲しませてごめんね。叶うなら、許されるなら。主も一緒に連れて行きたい、離れたくないよ。別れ際、これが最期かと思うと熱いものがこみ上げる。泣きたくない、絶対に泣くもんか。そう唇を噛み締めるけれど、加州の気持ちとは裏腹に瞳からは涙が零れる。その雫は加州の頬を伝い、主の震える肩を濡らした。するとどうだろう、主が泣き腫らした目を大きく見開いて加州の名を呼んだのだ。
「きよ、みつ?」
「あ、るじ…?俺が、見えるの…?」
「…?もう帰って来たの、?」
「うん、…うんっ…俺はここだよ」
「無事だった、よかった…よかった…。私、…清光がお守りを忘れてる事にすぐに気付けなくて、なんだか嫌な予感がして、こういうのよく当たるから、だから私不安で、」
「不安にさせてごめんね、泣くまで心配してもらえるなんて俺、本当に愛されてるなあ!」
できる限りの明るい声で言ったのに。それがいけなかったのか主はその大きな瞳からボロボロと大粒の涙を零した。ああ、なんて狡い。涙する姿まで美しいだなんて。主の涙に比例するように外で降り続ける雨音が大きく、激しくなっていく。震える手を伸ばし主の涙をそっと拭う。今の加州にはそれが精一杯だったから。主の唇が微かに動いたのはわかったけれど、その声は雨音に飲み込まれ加州に届く事はなかった。
「主、これが最後だから許してね」
主が俺の事を初期刀としてたくさんいる刀剣達の中で最も信頼して、特別な愛情を注いでくれた事をいつも痛い程に感じてたよ。その愛情が俺の欲したものじゃなくても。俺は確かに愛されてた。俺はずーっと幸せだったよ。でも俺って我儘だからさ。それだけじゃ足りないんだ。だってほら、俺も健全な男の子だから。愛してるって言えなかったくせに、矛盾してるとは思うけど。でも最後だから、許してね。どうか主のその唇に触れる男は、俺が最初で最後でありますように。そう願う事も、その唇に触れる事も。
「えへへ、主のふぁーすときす、俺がもらっちゃった」
ねえ主知ってる?五月に咲くサツキって言う花の事。旧暦の皐月の頃一斉に咲き始めるからサツキって名前になったんだって。どんなに厳しい環境にも負けずに綺麗に咲いてる強い花なんだよ。まるで主みたいだと思って俺覚えてたんだ。ほら、主は覚えてる?主が審神者になって最初の頃は本当に大変だったよね。それでもそんな険しい道を今日まで二人で歩いてきたね。そんなサツキの花言葉がね、笑っちゃうくらいに俺と主にピッタリなんだ。なんだと思う?
「なんで最後なんて言うの、ねえ、キスなんて清光にならいくらでもさせてあげるから、だからお願い、最後なんて言わないで…」
それはね「幸福」なんだって。どうしても五月は好きになれなかったけどさ、そんな花の話を聞いたらちょっとは好きになるしかないでしょ?だから、五月になったら俺を思い出してね。俺と過ごした幸福な日々を、幸せだったなあって思い出してね。それだけで俺は主の記憶の中でいつまでも生きていけるよ。だから約束だよ。
「なんだかちょっと…照れくさいね」
俺、次は人間になりたい。主と対等でいられる人間になりたい。人間だったら、こんなに悩まなくても簡単に主に好きって伝えられるでしょう?主と同じ時間を生きて、一緒に朽ちる事ができるでしょう?なれるかな、なりたいな。絶対なってみせるよ。だからさよならは言わないからね。また会いに来るから。それまでは記憶の中で一緒に生きさせてね。俺に愛する事を教えてくれてありがとう。愛される幸せを教えてくれてありがとう。ありがとう主、本当に本当に愛してたよ。
「清光、待っ――…」
「失礼します」
背後から聞こえた声に凍り付き、そっと開かれた襖を静かに振り返る。部屋で見つけたボロボロのお守りに嫌な予感がしていたのだ。そしてなぜか突然目の前に現れた清光にも。それは正に今、最悪な形で的中する。本日の結果を報告します、そう言った人物は部隊長として送り込んだはずの加州清光ではなかった。自分の手元にあるお守りを無意識のうちに握りしめる。その形が崩れる事も厭わないで。真っ直ぐ主を見つめていたはずのへし切長谷部が、一瞬、ほんの一瞬主から目を逸らすと囁くように、何かをこらえるように震えた声で言った。清光はもう、帰らない。
「本日、池田屋一階にて、打刀・加州清光が破壊されました事をご報告致します」
Ash.