平和すぎる両親に平和すぎる学校生活に、平和すぎる友。灰色で塗りつぶされた毎日を、ただ意味もなくゆるゆると過ごしている――そんな日常を、私は人生と呼んでいた。

 *

 その男に出会った――いや、厳密に言うと、その"世界"を知ったのは、高校一年の春だった。
 中学の時から友人だった仙ちゃんに連れられて、とあるスーパーに入ったとき、私はそこに広がる非日常に瞬く間に魅了されていた。
 たかが半額弁当一つを手に入れるために繰り広げられる戦闘、それでいて個人の個性や戦略が絡み合い、ただの肉弾戦ではない奥深さ――平和な日常に飽いていた私の心にそれらはとても刺激が強かった。今まであった人生という概念がすべて覆されてしまうほどにだ。

 半額弁当を獲得するために戦うということにも驚きだが、それを目的とした部活が私と仙ちゃんの通っている烏田高校にあったということも大きな衝撃だった。
 そのHP(ハーフプライサー)部という部活に、仙ちゃんに誘われるまま入部した私は、そこで一生忘れることのできない人物と出会った。
 金城優という一つ年上の先輩である彼は、殴り合いどころか口喧嘩もまともにしたことのないくらい、臆病でずぶの素人な私にも真摯にスーパーでの戦い方や《礼儀》を教えてくれた。
 金城先輩は、特に優秀な者だけに付けられる二つ名を持っており、スーパーという小さな戦場で縦横無尽に戦う様は、どんな伝説の英雄よりも凛々しく見えた。それだけではなく、高校で特待生という扱いを受けるほど頭も良く、天才と呼ばれる頭脳を持った彼に心惹かれるまでに、そう時間はかからなかった。

 しかし金城先輩は、仙ちゃんに何らかの才能を見出しており、彼女をよくスーパーの半値印証時刻に連れて行って、戦い方を教えたり自身が見本となって見せたりしていた。
 中にはそんな仙ちゃんを「腰巾着」と言って嗤う者もおり、彼女は憧れの金城先輩に少しでも追いつくために、女性が履くにしてはごつく底の厚いブーツを履き、真っ直ぐに背を伸ばしていた。必死に金城先輩の後を追うその姿は、飼い主についてまわる子犬のようだった。
 
 私はといえば、HP部の個性的な面々の先輩たちと仲良くなり、皆で食事を囲む程度にはこの世界に馴染んでいた。
 相変わらず金城先輩に心惹かれるのは変わらなかったが、金城先輩の関心は常に勝利と仙ちゃんにあった。私のことも後輩として普通にかわいがってはくれたが、それ以上に踏み込むことも踏みこまれることもなかった。
 それに、仙ちゃんの年齢より幼く見える素直な照れ笑いは、同性である私が見ても本気で守りたいと思うほどだったから、金城先輩が彼女にどういう感情を向けていたのかは聞かずとも察していた。なので、こういう曖昧で安定した関係を壊したいとは思わなかった。
 ところが、時の流れというものは残酷なもので。多数が平和を望んでいても、ごく少数の火種によってすべてが分裂してしまうという危機にHP部は直面していた。
 発端は三年の“烏頭みこと”という女性の先輩である。彼女は別の年上の男性と交際していたが、金城先輩を好きになったことをきっかけに別れたのだ。
 それだけなら別に問題ではなかったのだが、彼女は同じHP部にいた仙ちゃんに、主に争奪戦時に執拗な嫌がらせを繰り返し始めたのだ。自分が何故そんな嫌がらせを受けているのか理解できないまま、嫌がらせにより仙ちゃんのスーパーでの勝率は著しく下がり始めた。
 嫉妬による烏頭先輩の嫌がらせは、事態をますます悪化させていった。仙ちゃんの戦力低下が烏頭先輩にあることに気付いた金城先輩は、仙ちゃんを守るために部を脱退してしまったのだ。
 HP部には「部員同士で戦ってはいけない」という掟がある。そのため、金城先輩は仙ちゃんを守るために部を抜け、烏頭先輩と対峙することを選んだのだ。
 金城先輩が部を抜けたことをきっかけに、ガラスが砕けるように、呆気なく部は瓦解していった。やがて日が経ち、当時先輩だった人たちは皆卒業し、居づらくなった私も二年生になる少し前に部を抜けた。
 残ったのは仙ちゃん一人で、部員減少によりHP部は部活からHP同好会へと名を変えていった。
 何度か仙ちゃんのところに戻ろうか考えたこともあった。一人ぼっちを寂しいと感じる仙ちゃんが、独りになっても守ろうとしているあの場所に行きたくないわけではなかった。
 だが、あの広い部室でぽつんと一人で座っている仙ちゃんを見たくなくて、過去の賑やかな時間を寂しさで上塗りしたくなくて、私はHP部からも仙ちゃんからも逃げ続けた。

 金城先輩と再会したのは、高校二年の冬だった。年が明け、既に新学期は始まっていた。その時の私はスーパーの戦場に立っておらず、またあの平凡で特別さのない灰色の日常を送っていた。刺激に満ち、周りとは違う色鮮やかな日々は過去のものとなっていた。

「……みょうじか?」

 近くのコンビニでカフェオレを買って外に出ると、そこには記憶から忘れようとしていた彼がいた。すっきりとしたボディのバイクをまたぎ、ヘルメットを外した彼の顔を見たとき、私はどう足掻いたって彼のことを忘れられないんだと確信した。

「金城、先輩」
「やっぱりみょうじか。……久しぶりだな」

 ああ、その遠慮がちな優しい笑み。これほど素敵に笑える人を、私は未だ見たことがない。

「この辺に住んでいたんだな」
「えぇ、まあ」
「……良かったら、少し公園で話さないか?」

 目元を穏やかにゆるめ笑う先輩の誘いを断る理由なんて、私にはなかった。

 *

「今まで何されていたんですか?」

 近くの公園のベンチに二人で座りながら、私はカフェオレを、先輩はブラックコーヒーを飲む。私の問いかけに、先輩はゆっくりと答えてくれた。

「去年までは海外の研究機関で勉強していた。今は日本でやることがあるから、帰ってきているんだ」
「海外なんて凄いですね……」
「ありがとう。でも、春になったらまた海外に行って、何年かは日本に戻ってこないつもりだ。……お前はどうなんだ? スーパーには今でも行っているのか?」
「……いえ、今はもう」

 両手でカフェオレのカップを持つ。俯いて小さく首を振った私に、金城先輩は何も言わなかった。
 訊きたいことはたくさんある。どうしてHP部に戻ってきてくれないのかとか、今の部の状況は知っているのかとか、仙ちゃんのことを今はどう想っているのかとか。でも、ちらりと盗み見た先輩の表情が、別人のように怖くて私は何も言えなかった。

「……そうか、残念だ」
「すみません」
「別に謝る必要はない。お前は“狼”には向かなかった、ただそれだけだ」
「……はい」

 あっさりと告げられた“お前は弱者だ”という指摘に、私は何も言い返せない。今、私の隣にいる彼は確かに金城先輩なのに、まるで別の誰かと話しているようだ。この一年で、一体彼の身に何があったというのだ。あの優しい先輩はどこに行ったのだろうか。
 先ほどの浮かれた気分はどこか遠くに逃げ、私は重苦しい感情を口の中に溜めこんだ。
 
「……昔のよしみで、俺がこれからやろうとしていることと、日本に戻ってきた理由をお前に教えてやろう」

 前触れなく告げられた言葉に、私は小さく肩を揺らした。こっそり彼の方を盗み見ると、その端正な横顔に薄っすらと狂気をはらんだ笑みを貼り付けていた。

「みょうじ、お前はスーパーでの勝利の味を覚えているか?」
「……はい」
「俺もだ。あの数々の強敵を倒し、高みでその日の“獲物”を手に入れるあの快感、あの悦楽を忘れるはずがない」

 金城先輩はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。月を見上げる先輩は、スーパーのみならずこの場においても絶対的な強者であり勝者であった。“特別”をコートのように当たり前にまとう彼の狂気の歩みを、私は気付いていながらも止めることはしなかった。

「“最強”ではない時でさえ、あれほどの味だったんだ。数々の強者を倒し、すべての狼たちの頂点に立ったとき、どれほどの至福が待っているのか想像すらできない」

 何かに取り憑かれたように朗々と語る先輩は、ゆっくりと私の方を振り返った。月明かりが彼によって遮られ、影が私を包む。

「だから俺はサトウヨウを、仙を倒し、己の“最強”の座を確立する。俺がこの国にいる時間は、もう少ししか残っていないから」
「……先輩、私……」
「協力してくれるか? みょうじ」

 彼の言葉に私は言い返すべきだと思っていた。でも、そんなことは無理だともわかっていた。彼に選ばれたことが嬉しくて、選んでくれたことが幸せで。彼は仙ちゃんでもなく、私の知らない誰かでもなく、私を――そう、私に手を差し伸ばしてくれたのだ。それを振り払う理由がどこにある。
 私はやっとこの人の、特別になれるのだ。

――そんな自惚れが、きっと間違いだったのだろう。

 冷たいスーパーの床に倒れ込む金城先輩を、茫然自失の様で見ていた私は、彼を打ち倒し新たな“最強”となったサトウヨウ――佐藤くんを止められずにいた。
 佐藤くんは全身ボロボロになりながら、それでも確かな足取りで勝利の象徴である月桂冠の弁当を手に取った。辺りは静まり返っていた。私以外にもこの壮絶な戦いを見ていた者はいたのに、誰も何も言わなかった。ただ、新たな“最強”である彼を見つめていた。

 それは、悲しくて、ありきたりな話だった。
 金城先輩は天才だった。人よりもすべてにおいて優れていた彼は、私と同じように日常に退屈さと倦怠感を持っていた。そんな彼が、命を削ってまで半額弁当を奪い合う世界に魅了され、刺激を与えてくれる毎日にのめり込むのに時間はかからなかった。そして、人よりも優れていることが当たり前だった彼は、誰も届かない更なる高みへと上り詰めようとしたのだった。
 金城先輩が仙ちゃんのそばにいて強さへと引き上げた理由は、自分と同等にまで強くなった彼女を打ち倒し、己の最強の座を確立するためだった。
 仙ちゃんはそのことを知っていた。それでも、金城先輩のことが好きだったから、最後まで希望を捨てなかったのだ。もう一度、皆で楽しんでいた日常へ戻れることを。でも金城先輩は、自分と戦うことを恐れ、夢と散った過去にすがっている仙ちゃんに価値はないと言って、彼女を見放し拒絶した。
 打ちのめされ、孤独に泣く仙ちゃんを支えたのは、私でも金城先輩でもなく、彼女の後輩である佐藤洋くんという少年だった。仙ちゃんを救うため、佐藤くんは今、私の目の前で金城先輩を最強の座から引きずり下ろしたのだ。

「せん、ぱい」

 その声が、彼に届いたのかわからなかった。
 佐藤くんは決して善戦していたわけではない。しかし圧倒的不利な状況にもかかわらず、彼は勝利を勝ち取ったのだ。仙ちゃんがいたから、仙ちゃんを守ろうとしたから。だから彼は、自分よりも技術も才能も溢れていた金城くんを倒せたのだ。
 金城くんは、最強になるために孤独を選んだ。最強の座は一つしかないから、誰かと共闘していては一生、座せることができないからだ。
 でも佐藤くんは、最強の座は望まなかった。望んだのは仙ちゃんの笑顔だった。その想いが、変えられないはずの現実を覆したのだ。
 私は金城先輩のそばにいたし、彼に情報を伝えるなど協力していた。でも、彼の孤独に触れられるほど、彼に心をゆるされてはいなかった。彼のそばにいたのに、私はずっと蚊帳の外だった。
 わかっていたのだ。どんなことがあろうと、金城先輩の特別な人は仙ちゃんなのだと。道は違えてしまったが、日常に飽き、孤独に覆われていた金城先輩の癒しとなったのは、確かに仙ちゃんだったのだ。
 金城先輩はまだ自分の奥底にある感情を知らない。でも、最強という孤独な王冠を失った彼が、そのことに気付くのにきっと時間はかからないだろう。

「……仙」

 先輩に肩を貸しながらスーパーを出る。すると、先輩の小さな呟きが聞こえてきて、私は息を殺した。下手に呼吸をしてしまったら、泣きだしてしまいそうだ。でも黙っていたら黙っていたで、胸が張り裂けてしまいそうになったので、私は震える声で沈黙をかき消した。

「……先輩、部まで送りましょうか?」
「いや、いい。部には仙がいる……俺にはあいつに会う資格はない」
「でも、仙ちゃんは……」
「いいんだ。……もう俺は必要ない」
 
 彼のその言葉に込められた感情はわからなかった。
 金城先輩に再会したあの夜、彼の狂気と執着から目をそむけなければ、先輩の行く道をしっかりと見据えていれば、彼の孤独を救えただろうか。いや、無理だろう。あの時の彼は、勝利に固執していた。特別だった仙ちゃんの声すら響かなかったのだから、私程度の人間の声なんて無意味そのものだっただろう。

「少し前に、ある奴から『仙と付き合ってみたらどうか』と言われたんだ」
「……はい」
「正直な話をすると、悪くないと思った。あの賑やかな毎日をまた過ごせるのも、それはそれで悪くないな、と。……結局、俺はその道は選ばなかったがな」
「知ってますよ。私も……仙ちゃんも」

 精一杯の強がりが、口から零れ出た。

「金城先輩が仙ちゃんのことを烏頭先輩から守りたくて、部を抜けたのは嘘じゃないです。結果はどうであれ、確かにあの時の先輩は仙ちゃんを守ろうとしていたし、ちゃんと守ったんです。仙ちゃんもきっとわかってますよ。先輩が昔と変わらずやさしいこと」
「…………」
「……先輩は、見つけてほしかったんですよね」

 孤独さに苦しむ自分を見つけてくれる人を。退屈な日常を輝かせてくれる人を。残念ながら、私はどちらにも当てはまらなかったけれど。

「……みょうじ」
「はい」
「ありがとう」
「私、役立たずでしたよ」
「そうかもな」
「そこは否定するところだと思います」
「ああ、そうだな」

 先輩が笑う。私の大好きな、控えめでやさしい笑みが、真横にあった。
 私たちはお互いに、望むものにはなれなかった。彼は“最強”に、私は“最愛”に。それでも仙ちゃんは夢が叶い、先輩は狂気から解放され、私は大好きな2人がそれぞれ歩む幸せを見ている。そう、これはハッピーエンドのはずなのに――どうしてこんなにも悲しいんだ。
 ふと肩から重みが抜ける。金城先輩が私に預けていた体を、起き上がらせたのだ。傷の癒えていない足取りで、金城先輩は私から背を向けた。その背中が少しずつ遠ざかっていく。

「さようなら、みょうじ」

 告げられた別れの言葉に、私は応えることができなかった。
 もしこれが甘いドラマなら、彼は私の苗字ではなく名前で呼んでくれただろう。もしこれが恋愛小説なら、私は彼の腕にすがり、淡い恋心を打ち明けただろう。そうして2人は結ばれ、ハッピーエンドになって、静かに物語の幕はとじる。でも、私の描く物語はいつだって平凡で、色に欠けるものなのだ。
 金城先輩にとって私は最後まで“後輩”で、私にとって金城先輩は一生かかってもたどりつけない“特別”な人だったのだ。

「さよなら」

 誰もいなくなった夜道に、言葉を投げかけた。周りには誰もいないけれど、あの人への想いを呟く気にはなれなかった。呆気ないエンディングには、この程度がちょうどいい。そうして私は、恋心をこの場に置いて、灰色の世界へと戻っていくのだ。
 でも、最後にただ一言だけ。

「また、いつか」


Ash.