神隠しに遭ったあったことがある。要するに、長期的な迷子だった訳だが、子供の足ではそう遠くには行けないだろうとか、大方池にでも嵌ったのだろうとか、推測に推測を重ねた大人たちはなかなか私を見付けてくれなかった。誰もが諦めかけた頃、山の中をさ迷い疲れて虚で途方に暮れていた私を発見したのが、今や長州にあの傑物ありと謳われる久坂であった。当時の私からしたら、お医者様のおうちの子、というだけの浅い認識の相手だった。まだ玄瑞と名を改める前の彼とは年の頃が近かったこともあり、他の子供たちを交えて共に野山を駆けることはあったが、特別親しいという訳ではなかった。そんな久坂が私を探してくれていたのか、それともたまたま見つけてくれたのかは定かではない。彼は弱りきった私を背負って歩いてくれた。久坂は私にとって命の恩人である。
「それほどでも…あるであります」
そう言いきった久坂は私の命を拾ったものとして好きに使い始めた。女中から密偵まで、それはもう都合良く。私が途中で嫌がる素振りを見せれば、久坂だって無理強いはしなかったと思うが、幼少期に彼に救われるという強烈な体験をした私にとって、久坂の言う通りに動くことは当たり前のことだった。
「それを洗脳と呼ぶのだよ」
教えてくれたのは自らをGODと呼んで憚らない高杉で、彼が正論っぽいことを口にしているというのはそれだけで面白かったからよく覚えている。そう感じていたのは私だけではない証拠に、吉田なんて顔を覆って肩を揺らしていた。
藩外の人間に接する時は、久坂相手でも敬称を付けることにしている。うちの御用掛が舐められては困るし、ただの主人と雑用以上の関係だと邪推されるのは望むところではない。
「…久坂先生からの伝言は以上です、何か託けることはありますか?」
「いや、その手紙を渡して貰えばそれでいい」
「畏まりました」
武市に頭を下げて、その場を後にする。勝手知ったる土佐藩邸の敷地を悠然と突っ切っていく。目下私は密使ではなく、正式な長州藩の使いだ。今日はお裾分けを持ってきた。手紙はそのついでである。諜報に女を使うのは、戦国時代から使い古された手だが、未だに有効であるらしかった。久坂は私が色仕掛けで武市を籠絡することを言外に仄めかせてくるが、彼には隙がないので難しいだろう。何より顔が怖いし。
「おう、おまん来ちゅうたんか」
ひょっこりと、懐こい笑顔をした青年が顔を出す。武市の代わりに…という訳ではないが、私に気のある素振りを見せる、唯一の土佐藩郷士である。色事には不慣れらしく、誘いをかけてくるようなことはない。ただ、私の姿を見るだけで、尻尾があったら振りきれているんじゃいかというくらい、嬉しそうな様子を見せる。話しかければ赤くなり、剣の腕を誉めてやったら照れまくりながら走っていった。岡田はとても無邪気である。今時子供でも、これ程までに純真無垢なのはなかなか居るまい。特に長州の若者たちは皆背伸びをして大人ぶりたがる傾向があるので、岡田のような人物はとても新鮮に映った。
「えぇ、岡田さんに逢えてよかった…今日は良い日ね」
「そ、そうじゃのぉ…まっこと良い天気ぜよ」
頬を染めて、目を輝かせて、前のめり気味に話す。取り繕うことをしない稚気溢れる彼のことを、いつの頃からか可愛いと思うようになっていた。
「お!以蔵さんが女口説いちょる!」
「お二人さん、祝言には呼んでつかぁさいや」
「そ、そんなんじゃないぜよ!」
通りすがった藩兵たちが、ぎこちない私たちを温かみのある調子でからかっていく。黙っていれば色男だろうに、焦って両手を振り回す岡田には文句無しに愛嬌があった。
京詰になっている藩士を見比べると、お国柄というのが顕著だ。分別ぶって開門する長州藩士を見ながら、しみじみそう思う。私は身内なのだから、もっと適当で良いのに。そういえば取り次ぎが遅いと、高杉も愚痴っていた。彼は藩邸に住んでいない。
「早かったでありますな」
欄干から身を乗り出すようにして久坂が顔を出した。
「てっきり朝帰りかと…」
ニタニタ嗤うこの男は、まさか私に下した命を忘れた訳でもあるまいし、白々しい。懐から武市から預かった文を出す。わざわざ出迎えに来たということは、早く寄越せとうことに他ならぬからだ。私は久坂の意を汲んで動く。岡田と懇意にすることを、彼は不快に思わない筈だ。私は個人的に土佐藩邸を訪ねていく。そこで長居をしていることを咎めるのは野暮だ。
近くを通りすがったので、土佐藩邸に立ち寄った。門兵も心得たもので、すぐに岡田を呼んでくる。事あるごとに情人に逢いにくる積極的な娘さん…というのは勿論建前で、実際には、この間の手紙の返事を携えてきた訳だが。
「どうかした?」
岡田は目に見えて浮かない顔をしていた。悄気ている。思い当たる節がなかったので、素直に尋ねた。
「信じられんぜよ、おまんというものがありながら久坂さんは…」
岡田は躊躇いがちに口を開いた。久坂の名前が出てきたので、思わず背筋を伸ばす。あの男が絡んでいるなら話は別だ。思い当たる節しかない。
「他のおなごのところに通っとるがか!?」
岡田は大袈裟に身を戦慄かす。そんなことかと拍子抜けして、私は脱力した。
「あー…うん、そうね」
男はみんな花街が好きだ。高杉やら桂やらは、放っておいたら住み着いていたりする。むしろ、久坂なんかは芸妓を隠れ蓑にして男のところに通っていることのほうが多いんじゃなかろうか。謀事的な意味で。
「やっぱり知っちゅうたか…おまんはほんに気丈なおなごぜよ」
岡田が口惜しげに拳を握る。大方、仲間の誰かから入れ知恵されたのだろう。
「いや、そもそも久坂と私はそういう関係じゃないし…」
思わず敬称が抜けた。どうやら岡田の前では素直になってしまうらしい。ガバッと音を立てて、岡田が顔を上げた。両の目が輝いている。
「ほ、ほんなら…ワシにも………いや、なんでもないぜよ」
とんでもないことを口にしかけたと思ったのか、後半は赤くなって口ごもってしまう。久坂や高杉よりいくつか年嵩である筈なのに、どうしてこの男はこんなに可愛いのだろうか。
逆に言えば、岡田より若輩なのに、どうしてこの男はこんなに老獪な表情を浮かべるのだろう。晩酌を楽しんでいるだけのようで、良からぬ事を考えているのは明白である。手酌では味気無かろうと、傍に侍っていた。
「あの人斬り以蔵を可愛いとは、いやはや惚れた弱味とは恐ろしいであります」
悪巧みは終わったらしい。久坂はこちらに水を向けてきた。
「岡田さんの為人、知ってる癖に」
「…変わった御仁ではありますな」
久坂は軽く肯定して、盃を置いた。慣れた手つきで私の肩を抱く。
「それより肴が欲しいであります」
「…さっき食べたばかりでしょう?」
食膳はまだ下げられずに残っている。片付けそびれても、台所掛に直に文句を言われるのは私だろうから、久坂は気にもしていない。蟀谷の下あたりに唇が押し付けられた。
「たまには私も年相応に甘えてみるでありますよ」
若さの等式が性欲ってどうなんだ。その発想が既に可愛くないが、私は久坂を拒まない。女の利用価値の中にはこういうのもおのずと含まれる。平静を保つ為、久坂と武市の不穏なやり取りを思い出した。土佐藩が下手を打たないよう祈る。今は情を交わしていても、その時がくれば、久坂は私のことも切り捨てるだろう。蜥蜴の尻尾みたいに。
久坂は、あれでいて要は己が手を下したいと考えている節がある。その方が確実だし、思う通りになる、と。共謀者である武市は、首魁は手を汚すべきではないと考えている。二人がなかなか落としどころを見つけられないでいるのは、根本的な考え方の違いからだ。どんどん分厚くなる書簡を携えて、私は今日も土佐藩邸の敷居を跨ぐ。火急の用件があったのか、気持ちの中で即応対したくなったのか、どちらにせよその場で返事を書きたいから待っていて欲しいと頼まれた。お安い御用だ。岡田と喋っていれば良い。
「………」
「岡田さん?」
「……おう」
そう思っていたのだが、肝心の岡田の口数が少ない。その癖そわそわと落ち着かず、明後日の方を見たり、頭を掻いたりしている。居心地が悪そうだ。
「都合が悪いなら、出直すよ?」
適当に買い物でもしながら時間を潰したっていい。私の言葉は少々素っ気なかったかもしれない。岡田は慌てた様子で、私の正面に回り込んだ。まるで通せんぼである。
「そんなことは断じてないきっ…!」
勢い込んだかと思えば、そこから先は急に萎んでしまう。ただ…と小さく呟いた。
「ワシみたいなもんが…っちゅーか…」
随分と卑下した言い方だが、武市の下知で人を斬ることに、岡田が強い抵抗と呵責を覚えていることは知っているので、不自然には思わなかった。暗い表情のまま、懐をあさり、小さな包みを取り出して、此方に向かって差し出した。
「くれるの?」
岡田が頷いたのを確認して、包みを解く。上品な玉簪が出てきた。黒木に飾られた白珠が、何故だか星を思わせる。
「おなごには簪を贈るもんじゃち、安岡さんらが言うきに…ワシもおまんに何かしちゃりたくて…その…」
岡田は言い訳をするように、慌てた様子でそんなことを口走る。私は貰ったばかりの簪を胸に抱くようにした。
「嬉しい…」
それ以外の言葉が出てこない。自分でも驚くほど、私はこの小さな贈り物に感動していた。いつもなら取り繕える筈の表情が上手く作れない。私の笑顔は随分とぎこちないものになっているだろう。それでも岡田は安堵の笑みを見せた。
どうやら、武市からの返事は久坂の意に染まぬものだったようだ。私が戻ってから、微妙に機嫌が悪い。部屋の隅で岡田からの贈り物を何気無く眺めていた私に、棘のある言葉が投げつけられる。
「そんなに欲しかったでありますか?」
「へ?」
どんな些細なことでも報告しろというから、こんな個人的なことまで話したのに、言うに事欠いてこれである。
「言ってくれれば簪くらい、私がいくらでも買ったであります」
憮然とした面持ちでそんなことを嘯いてから、久坂は声の調子を変えた。こうなったら、真面目な話だ。私はちゃんと心得ている。
「だから、今後土佐藩邸への出入りは控えて欲しいであります」
行けと言ったり行くなと言ったり、忙しい男である。言外に、久坂は土佐者にはもう関わるなと告げていた。岡田のはにかんだ顔を思い描けば、自然にまた逢いたいと心が揺れる。握りこんだ玉が掌を慰めた。
「わかった、しばらく外出は控えて大人しくしています」
それでも私は久坂に逆らわない。この命は彼が拾ったものだし、委ねきってしまっているほうが、心安らかにいられるからだ。岡田がこの境地に到れなかったことは不幸なことだと思う。私は誰を裏切ろうが殺そうが、それを久坂のせいに出来るから、あんなに苦しまない。自分自身の死でさえも、きっと。
「そうしてくれると助かるであります」
にっこりと、笑顔のお手本でも見せるように顔全体で久坂が笑う。この男は罪悪感が欠落しているので、私が腹の底でどんなに責任転嫁しようとそれを容認する。利用価値がある内だけだろうが。
「良い子にしてたら、ご褒美くれる?」
「勿論であります…簪でも着物でもご随意に」
久坂の指が、簪を握ったままの私の手の甲を思わせぶりに撫でていく。簪は心の籠ったものが一つあれば十分だ。着物も別に入用じゃない。
それから程なくして、岡田は数多の天誅事件の下手人として追われる身となった。あれだけ派手に斬り捨てていたのだ、嗅ぎつけられぬほうが可笑しい。岡田のくれた簪を弄ぶ。まだ一度も髪に挿したことがない。身に着けたところを見せたかった。きっと一生懸命、私に似合いそうなものを選んでくれたのだろうから。
「それで、どうするの?」
薩摩藩と会津藩が結託し、御所を封鎖。本来なら堺町門の警護にあたる長州藩兵を追放したのは、今朝方のことである。事態を収集させるべく朝から奔走していた久坂が戻ったのは、日が落ちてからのことであった。
「とりあえずは大坂へ…戦略的に撤退でありますが、」
私は頷いた。緊張が高まっている。このままでは権威どころか、命まで奪われかねない。
「お前は京に残るであります」
久坂は風呂敷を広げて、手早く荷造りをしながらきびきびと言った。この様子では今夜中に此処を経つ心算らしい。
「ただの女を一人残したところで何になるの…?」
この騒動の渦中に置き去りにされるらしいと知って、私は呆然とした。身を守るために蜥蜴が尻尾を捨てていくのは賢い遣り方だと思うが、切られた尻尾は蠢くばかりで、何もできはしないのである。それがわからぬ久坂ではあるまい。
「ただの女?…はて、私も随分見くびられたものでありますな」
久坂の手が頤に掛かる。無理矢理上を向かされた。
「お前はこの久坂玄瑞の女であります」
そう言いきって、久坂は不敵に笑う。だから殿を務めよと。次第によってはここで死ねと。
「…出来るだけ早く戻ってね」
薩会同盟が結ばれてしまった以上、久坂無しではおそらく長くはもつまい。私に出来ることは、やれ退去の準備だ、国に送る荷物の整理だと、苦しい理由を付けてこの屋敷に居座ることだけだ。
「無論。…この件が片付いたら、今度こそ褒美をとらせるであります」
然り気無く、久坂が私の手から玉簪を取り上げた。有り得ないことだが、あの日私を見付けてくれたのが岡田であったならと考えてみる。すぐに虚しくなった。久坂のいない世界では、私はきっと呼吸ができない。自分で物を考えなければならないなんて。選ばなければならないなんて。
Ash.