憐憫でも嘲笑でも好きに浴びせればいい。
みょうじがそれでいいなら、俺もそれでいい。
生まれて初めて、恐らく恋をした。
好きになった瞬間は雷が落ちたように感じる。まずそれは嘘だった。感じたのは、身体の中に虫か何かが入り込み、今にも心臓に歯を立てる寸前であることを知ったような異物感と不安と焦燥。初めてのキスはちんすこうの味だといつか聞いたが、それも嘘だった。あいつが直前に口にした珈琲と、俺が直前に口にしたスポーツドリンクの味が奇妙に混ざり合い、感じたのは、ひどく不愉快な苦み。
初恋は実らない。これは本当だった。俺がみょうじへの気持ちを自覚してしまったきっかけは、朝練でやけに張り切っている裕次郎に話し掛けてしまったこと。
「裕次郎、ちゅーややけに機嫌良いな」
「へへ、バレちまったばー? なあ知念、わん、ついに彼女出来たんばぁよ!」
「ぬーがよ、うんねぇくとぅ……おめでとう」
「へへっ、にふぇーどー! うり、あっちで練習見てんだよ。カッコいいとぅくる見せてーんだって!」
気合いが入っている理由はそれか、そういえば珍しく遅刻もしなかった。現金なやつだとテニスコートを囲うフェンスの向こうに目を向けると、知った顔の女がこちらに、正しくは裕次郎に、にこやかに手を振っていた。凛は知っているんだろうか、永四郎は、慧くんは。皆にも言って一頻りからかってみるか等と考えていたが、そんな考えは白く上書きされていく。冷や汗が滲んで、喉元まで出かかった言葉が詰まった。
「六組だから知念も知ってるだろ、なまえぬくとぅ。ちゅらさんだよなぁ」
「あ、……あー、だぁるな」
知っているも何も、ずっと気付いたら目で追ってしまっていた女子だ。その気持ちが何なのかは今の今まで分かっていなかった、これから先も分からないままであれば良かったのにと思う。
でれでれした顔でみょうじに手を振り返す裕次郎と、裕次郎の名を呼んで笑うみょうじ。ああ、見ていられなかった。顔を背けると、その先に永四郎の姿があった。ちょうどいい、裕次郎には悪いがこれ以上この会話を続ける度量は俺にはない。手にしていたテニスボールを彼の方に軽く放ると、足下に転がってきたそれに気付いた我らが主将はこちらの様子に気付いたらしく眼鏡をくいと指で押し上げた後こちらに檄を飛ばした。
「ちょっと二人とも、いつまで休んでる気なの? 甲斐クン、集中しないとゴーヤー食わすよ!」
「げっ! バレた……!」
裕次郎はみょうじにまた手を振って、永四郎の方へ駆け出した。謝る裕次郎と、裕次郎の不真面目な部活態度への説教を始めた永四郎の声が聞こえる。その様子を見ておかしそうに笑い、校舎に向かって歩き出すみょうじの姿を見えなくなるまで見送ってから、好きだ、と思った。
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「知念くんって私のこと好きでしょ」
「え、」
「私のこと、いつも見てるよね。」
帰途へついた夕暮れ道で、恐ろしい問いかけをされた。
考えないようにしていたことだった。考えてはいけないことだった。“それ”を、最も知られてはいけないのは裕次郎。その次に知られてはいけない人物に、墓まで持ってゆくつもりだった気持ちを完全に見透かされてしまっていた。
夕暮れの逆光、こがね色を背中に背負ってこちらに向かい立つみょうじは、真っ黒い幽霊のように映る。一歩また一歩とこちらに距離をつめるみょうじの表情は、全く伺えない。
「ち、違う」
「何が違うの?」
「やーが、裕次郎の恋人やくとぅ見てただけさぁ」
「へえ、それだけの理由で、あんなに?」
「……」
「黙っちゃった、やっぱり図星なんでしょ?」
素直になっちゃえば楽になるよ。言って楽になっちゃいなよ、ね。
「知念くん」
もうみょうじは眼前に立っていた。
裕次郎を無垢に応援していた時とは別人のような笑顔。
「知念くん」
みょうじが、俺を見つめている。
裕次郎ではなく、俺を。
「わーは、」
知恵の実を食わせた蛇はきっと、こういうやつだった筈だ。
「……みょうじが、しちゅん」
「私は裕次郎の彼女だよ? 何言ってるの?」
「や、やーが言えってあびたんさぁ」
「私は告白しろなんて一言も言ってないのにね」
みょうじの手には携帯電話、画面には録音が完了しました、という文字。もしかして俺は、はめられたんだろうか。みょうじが画面中央の赤いマークに触れると、先ほど俺が口にした言葉がそっくりそのまま携帯から流れ出た。『わーはみょうじがしちゅん』、その純然たる事実を反復され、顔に血液が集まるのを感じる。
「これ裕次郎に聞かせちゃおっかな? そしたら、どうなるのかな」
「や、止めれ……!」
「裕次郎、怒るかな? チームメイトが略奪愛しようとしてたなんて知ったら、ショック受けちゃうかもね。試合の結果にも響いちゃうかも? そうなったら大変だねえ」
お前が何もしなければそんなことにはならないだろう、という言葉はぐっと堪えて飲み下した。至極楽しそうに微笑むみょうじは、悪魔のようなことを言う。こんな彼女を、俺は知らない。きっと裕次郎だって知らないだろう。これが彼女の本性であって、俺は今まで騙されていたんだろうか。けれど不思議と、裏切られたという怒りはどこにも無かった。
「どうしたら、裕次郎に黙っててくりゆん?」
「えー、どうしようかな」
「何でも、する」
裏切ったのは彼女じゃなくて、俺だ。チームメイトに対する不義理を働いたのは誰でもない、俺。みょうじと今日ここで会わなくたって、俺は遅かれ早かれ彼女に対する気持ちに嘘をつけなくなってしまっていただろう。しかしみょうじが裕次郎に録音を聞かせてしまえば、部内に不和が生まれる。全国大会に向けて気を引き締めていかなければならないこの時期に、それは非常に不味い。
「何でも?」
「わーに、出来ることなら」
「それじゃあ知念くん、私と浮気しちゃおうよ」
「――え、」
「知念くんにも良い条件でしょ?」
勿論、裕次郎には内緒だよ。
そう言って立てた人差し指を唇に当てるみょうじは、人間ではない、得体の知れない別の生き物のように見える。きっと裕次郎と何度も重ねたであろう唇が、呪いの言葉を呟いた。
「私も裕次郎にはバレたくないもの。ずっと一緒に、嘘をつこう?」
「みょうじ、うんねぇくとぅしても、やーには何の得もねーらん……」
「面白そうじゃない? それに、私、知念くんのこと好きだもん。」
そんなまさか。驚きに言葉を無くした俺に、みょうじは愉快そうにけらけらと笑ってみせた。
「裕次郎のつぎに、だよ」
それから俺たちは、裕次郎や周囲の連中に隠してひそやかな逢瀬を続けた。みょうじは裕次郎と繋いだ手で俺の肌に触れて、裕次郎の名を呼ぶのと同じ声で俺の名を呼ぶ。裕次郎に睦言を囁くのと同じ声で、俺にも甘言を耳打つ。それから程なくして彼女は、裕次郎には未だ許していないという場所を俺には許すようになった。
「なまえ」
「なあに、知念くん」
「――わーを、名前で呼んでくれないか」
今日もまた、許された。薄暗く埃っぽい資料室で、すっかり制服を着終えたみょうじの背に声をかける。ふたりだけでいるときは名前で呼んでと言い出したのは向こうであるのに、そういえば彼女は俺を頑に下の名前で呼んでくれない。不意に気になったのだ、先ほどの行為の最中、そればかりが何故か引っ掛かって仕方がなかった。
「嫌」
「っ、どうして……」
「きみは私の恋人じゃあないから。それじゃあ、また明日ね」
つい数分前まで肌を露にして神聖な校内で欲を貪っていたとは信じられないほどに清潔な空気を纏ったみょうじは、ひらりと手を振って明るい廊下へ消えて行く。引き戸が無情に閉められて、俺は薄闇のなかにたったひとりで残された。
これが最適解だったのか、俺は知らない。
人間がまだ人間のかたちになる前の昔のように、ただ遺伝子の欲求にだけ実直に生きることが出来れば、こんなに思いあぐねることもなかっただろう。大切なチームメイトを、そして自分の心と身体も騙すようなことを、俺は一体いつまで続けるつもりなんだろうか。彼女がこの遊びに飽きるまでか、それとも。
Ash.