ベタベタとまとわりつく長い腕は重たくて苦しい。緩いウェーブのかかった艶のある青がかった髪は少しだけ寝癖がついていた。一人暮らしのベットは二人だとぎゅうぎゅうで肌の感覚が生ぬるい。幸村が一人暮らしをするようになったのは大学に入ってからだった。哲学系だか美術系だかよくわからない学科に進んだ幸村と、適当に将来的に潰しのききそうな学科に進んだ私。同じ大学ではあるものの講義は全くといっていいほど被らず、生活パターンはほぼ合わないし別に付き合っているわけでもない。服を着て寝ているから多分酔っ払って勢いで雪崩れ込んで一日中寝てたんだろうか。
部屋は男の子の割にはほどほどに整頓されていた。灰皿にはキャスターのタバコが4本。いけないんだって思いながら幸村の長い睫毛をぼんやりと見ていた。幸村の生活の痕跡があたりまえだけれど端々に見えてどきりとする。人形みたいな顔をしているけれど洗濯物だって干してるしスマホの充電コードだって延長コードに繋がれたままになっている。昨日の記憶が悲しいことにほとんどない。中高からの腐れ縁でわりと話す中の幸村とこぢんまりとした居酒屋に行ったことだけは覚えている。本当は仲介役の柳も来るはずがインフルエンザにかかったと言われて、予約もとってしまったものだからあまり二人で話すことのない幸村とサシで飲むことになってしまった。柳とは図書委員だとか同じクラスという縁があったものの、正直幸村は友達の友達くらいで、友達とも呼べないくらいだからよく飲みに行ったと思う。そしてよく幸村もそんなに話さないなんともいえない女を自分の空間にいれる心の広さを持ち合わせていたのか。私はかなり幸福だった。ほぼ隣で寝てはいたもののエッチはしていないし強いていうなら酒臭いのが気になるところくらいである。
「……起きたの」
「おはよ」
寝ぼけ眼の幸村は案外低血圧そうだった。ボサボサと髪をかき分け、だるそうに重そうに腰をあげた。
「灰皿借りてもいい?」
「どうぞ。……昨日タバコ吸ってたっけみょうじさん」
「あんまし。人前じゃ吸わないから」
カプセルを潰して火をつけ、煙が白く細く立ち上がる。幸村もあわせてか隣で吸い始めていた。女の子みたいなバニラの香りは繊細な幸村によく似合っていた。
「いけないんだ」
「一応女の子なんだからみょうじさんもやめておいたほうがいいよ」
「私はもう多分やめらんないよ」
一応女の子、幸村はかなり失礼な男だ。繊細なようで物言いはずけずけとはっきりとしているし、柔らかいようでたまに威圧感がすごいと感じてしまう時がある。普通の男だったらこのまんま申し訳なさそうに謝罪してさっさと帰れるんだろうけれど、理性を取り戻しつつある幸村は多分一筋も二筋もいかない。ほんの少しだけグラグラと痛い頭に甘えて幸村のベッドにもう一度倒れた。本当は昨日の飲み会の思惑なんて知っていた。接点のほとんどない幸村と私を繋ぎ止める飲み会なんていうことは、ある程度狡猾な私は分かっていた。柳が突然にインフルエンザにかかったけれど、多分柳はインフルにならなくてもこなかったのだ。でも私は、本当は柳のことの方が好きだった。柳の密やかな優しさが好きだった。柳の前では清廉な女でいたくてタバコも大学では吸えなかった。好きな男がいるのに親友の恋愛のためにセッティングされた飲み会に易々と参加する私はきっと大馬鹿者なんだろう。
幸村は私の顎に触れて唇を重ねた。私はどうしようもなく悲しくて、普通だったらこんなに綺麗な幸村にキスされたんだから嬉しくなってもいいはずなのに、何の感情も湧かないのだ。
「みょうじさんって可愛いね」
幸村は私の全てを多分分かっているんだろう。私が柳のことが好きなことも、高校の頃からずーっと見ていたことも、何から何まで。私が柳に対する振る舞い方と、幸村の私への振る舞い方は壊さないように突然丁寧になるところがよく似ていた。それでも幸村はずるい。
「俺はお前のことをずっと好きでいられるよ。本当は憎たらしくて殺したいくらいにずーっと見ていたんだ。柳のことが好きなみょうじさんの姿がずーっとずーっと可愛くて、絶望した顔も俺のものにしたかったんだ」
細長い指が私のまつげや鼻筋、唇に優しく優しく触れる。俺は誰よりもやさしくできる、そう言っているようにも見えた。やさしくされることが私を一番傷つけるというのに何で残酷な人なんだろう。バニラの匂いがする体は抱きしめられていて人の体温だから安心した。殺したいくらいに好きっていう言葉が物騒だけれど、好きな人に他の異性が身近にいた幸村くんの心はどれだけ荒れ狂ったんだろう。私は柳に彼女ができた時に好きな気持ちがオセロのようにひっくり返った。恋って突然殺意にひっくり返ってしまうのはなんでなんだろう。
「ありがとね」
私に殺したいくらいの愛情をくれてありがとう。まるでエニグマみたいな感情を、私にずーっと君はぶつけてくれていたんだね。
「俺の方があいつなんかより汚い君も可愛いって思えるよ。だから俺のために泣いてよ」
私は多分ひどいことをしている。幸村が一番目に好きな男になれないのを知っていて、この人の優しさとエゴに漬け込もうとしている。愛がなくてもキスはできる。セックスもできる。多分幸村は私と一緒に傷ついてボロボロになっていく人。勝利の女神なんて私たちには多分微笑まない。ご飯を食べたりタバコを吸ったり呼吸をするだけで忙しいんだから、好きでもないたった一人を幸せにするのなんて難しい。だとしても幸村の好きのエネルギーは恐ろしいくらいに強いのだ。柔らかく微笑む目の奥は笑っていなくて、一歩間違えたら殺意にも見える。暗号みたいにわかりにくい恋心を私たちは長く持ちすぎた。158,962,555,217,826,360,000通りのもはやなにがなんだかわからない恋をお互いにさっさと燃やして灰にできたらいいのに、好きを好きだと言えなかった私にとって幸村は痛い。私もこうなれたらよかったのに。
「大好きだよ。愛してる」
幸村の薄い唇から吐かれる言葉は、お前は俺と共犯だ、というようなニュアンスで鎖みたいに絡みつく。
Ash.