隣の席の真波は授業中、爆睡している。これはいつもの光景なので、先生ももはや諦めて彼を起こそうとはしない。たぶん普通の女子だったら、彼の寝顔を盗み見してときめいたり、隠し撮りしたりするのかもしれない。でも私はそんなことせず、彼を無視して黙々と授業のノートをとる。真波とは幼少期から懇意にしているので、彼の寝顔に物珍しさを感じないのだ。

 授業が終わると、真波はゆっくり目を開ける。彼は周りを見て、放課後が始まっていることに気づくと、欠伸をしながら「部活、行かなきゃ」と独り言を言う。
 そうして彼は立ち上がり、さも当然といった顔で私に頼んできた。
「今日のノート、見せて」
 それもまたいつものことなので、私は彼にノートを何冊か手渡す。
「ありがとう」
と言ってそれをカバンにしまいながら、真波は底抜けに透き通った笑みを浮かべた。

 彼のファンとして彼に恋し、彼を追いかけている女子学生に頼めば、ノートなんていくらでも手に入るし、宿題もいくらでも肩代わりしてくれるはずだ。でも彼はそれをしない。なぜなら彼は自分を持て囃す者達に興味が無いから。
 そのかわり、彼が私を頼ってくれるのは、第一に私が彼と昔から親しい間柄だから。そして第二に、私が他の女子と違って、彼に露骨な恋心を示さないから。というか、恋心なんて概念が私の胸に芽生えたことは一度もない。そのような汚らしい感情を持ちたいとも思わない。

 私たちは二人とも、小さい頃から体が弱かった。そのせいか、衣食住や娯楽や学問といった生活の全てに熱意が持てず、世界に対して無関心だった。今の真波は自転車に出会ったおかげで自転車にのみ興味を示すようになったが、私はまだ何にも興味が持てない日々を送っている。強いて言うなら、真波山岳の生き様以外に興味がない。
 真波は世界に対して何も求めていない。彼が求めているのは、ただ一つ、自分が生きているという実感だけ。そんな彼ほどではないが、私も自分は相当無欲だと思う。恋なんて当然興味が無いし、他人に対して何かを要求したいと思うことがない。私は真波に何も求めない。もし私が真波に対してひとつ要求するとしても、私が望むのはせいぜい「存在していてくれ」くらいだ。この世界の、同じ空の下に、無垢の象徴として彼が存在していてくれればそれだけで私は満足だった。

 真波山岳は人間ではない。彼は神だ。そしてそのことを知っているのは、この世で私だけである。
 真波は、昔はただの人間だった。病弱で、いつも家で寝てる、弱々しい、まさに人の子。でも今の彼は違う。自転車に乗るようになった彼は、今やどこへでも飛翔できる崇高な存在に変わった。彼の速さには誰も追いつけない。彼と競い合う他の選手も、彼の幼なじみの少女も、誰一人として彼に触れられる者はいないのだ。それなのに、みんながみんな、彼に触れようとする。真波の近くへ、のぼりつめたがる。そんなの狡い。一方的に、都合のいい時だけ、自らのエゴで神の寵愛を求めるなんて、あまりに陋劣だ。私なんて四六時中ずっと彼を信仰していて、それでも彼に触れられないというのに!
……などと、醜い思いで心が黒く染まりかけた時、私は彼のレースを見に行くようにしている。彼がどこまでも速く、高く、登っていく、その純粋無垢な姿に、心が洗われる。眩しい青空へ、彼の背中が溶けていくのを見ながら、私もまた無欲な信仰者へ戻っていく。青く、清くなりたい。彼に近づきたい。そのために、私ももっとずっと天真爛漫な生命にならねば。

「山岳。ちゃんとノートとってる?」
 ふと、聞き慣れた女の子の声が、教室の入口から聞こえた。見ると、教室の出入口で真波の幼なじみの委員長が部活に向かおうとする真波を引き止めている。
 私は真波と知り合ってから何年か経つが、私が真波と知り合う前から、あの委員長の女の子は真波の友達だった。だから多分、真波は私に対してと同じくらい、あの女の子を信頼している。
「とってるよ。ノート、もう友達に借りてるし」
 真波はヘラリと笑って幼なじみの熱視線を躱す。それを横目で見ながら、私はなんとも言えない優越感に浸らざるを得なかった。そしてそんな自分がどうしようもなく醜いと思った。馬鹿みたいだ。自分の信仰心は誰にも負けないと自負しているくせに、こんな些事で優劣を競うなんて。
「ああ、そういうえば、今度レースに出るんだ」
 不意に、部活へ行こうとしていた真波が振り返り、委員長に向かって告げた。
「良かったら、見に来て」
 言われた側の少女は当然、赤面して「山岳がそう言うなら見に行ってやらないこともないわ」とかなんとか、天邪鬼なことを言っている。
「それじゃ、またね、委員長」
 真波はそれだけ言い残して、教室を出ていった。真波の背を見つめる少女、そして少女を無意識のうちに睨みつける私がいる。
 ああ、どうしよう、みじめで、醜い。私の中で、汚らわしく真っ黒なドロドロが芽生えてしまった。純と不純が混淆する。また一歩、清く澄んだ真波の存在が私から遠のいていく。彼に近づきたいと思えば思うほど彼が遠ざかるなんて、世界は残酷だ。果たしてどこまで無欲になれたら私は救われるのだろう。


Ash.