「アイスクリームが食べたい」

なんの脈略もなくなまえが呟いたのは風が秋のにおいを纏い始めた季節だった。夏の暑さはゆうに通り過ぎ、朝晩はむしろ毛布なしではいられないくらい寒さを感じる。つい先程まで明日からカーディガンを持ってこなくちゃと自分で決めたばかりだというのに。隣で歩調を合わせて歩いていた松川はなかば呆れていた。

思いつきのわりになまえの決意は堅かった。いくら寒い、だとか、気分じゃないと反論しても、彼女に松川の意見は聞き入れられない。結局、駅前の繁華街でアイスクリームを食べることになった。一度決めたら最後まで。そこだけ切り取れば尊敬に値するのになまえの場合は突拍子のない思いつきと頑固さがセットになって出てくるから、松川はいつもなまえに手を焼いた。小さく悪態をついてみせながらも最後に許してしまうのは、惚れた弱みだとでもいうのだろうか。

「どこに入る?」
「3段で好きなアイスを組み合わせられるとこがいい!」
「は、3段も食うの?」
「松川は1段でもいいんだよ」
「太りそうだから心配してやってんの」

余計なお世話だと言わんばかりになまえは唇を尖らせる。桜色に色づく柔らかそうなそれに目を奪われそうになって、松川は思わず視線を逸らした。なまえの隣を歩くのは心地よく安らぎをおぼえる時間でもある。けれどこうやって、忘れた頃くらいにどこからともなく意表を突かれるものだから、心臓に悪い。妙にできた空白を埋めたくて苦し紛れのように欲張りと呟いた。向かい風に吹いた秋風が伸びかけの髪を優しくすくって耳元を擽る。

「欲なんか捨てられないんだから、楽しんじゃえばいいの」

軽い口調で唱えた彼女の言葉はふしぎと背筋が伸びるような力強さを孕んでいた。それとは対照的な朗らかな表情には有無を言わせない説得力がある。柔らかな雰囲気の中にきらりと光る輝きは、うろこ雲に隠れた一番星みたいだ。茜色に染まった空にふと目をやりながら、松川はそんなことを考えた。
欲を楽しむ、なんて発想は到底自分だけでは思いつけそうにない。欲張ることはいけないことだと幼い頃祖母に言い聞かされて育ってきた。松川からすれば、欲というものはどうしても悪いことのように思えてならない。人前で自分の欲望をさらけ出すのは、なおのことである。
それならば、と松川は口を開きかけて、やめた。みょうじに好かれたいと思っている俺の気持ちはどうやって楽しめばいいの?そう問いただしてみたかった。けれどそんなことを考えること自体、我ながら女々しさを感じて嫌になる。言葉の代わりに溢したため息は誰に知られることもなく静かに溶けていった。

あ、という小さな呟きとともに、なまえは足を止めた。よくコマーシャルで見かける世界的チェーン店のカラフルな看板には『ダブルを頼むともう一つ!』というポップな文字が躍っている。

「ここ!ここにしよう!」

どうやら、思い描くものはこれだったらしい。なまえはシャツの裾を引っ張って松川を店内へ促した。眩しいくらいの笑顔につられ自然と松川の口角も上がる。二つ返事で彼女に続けば、いらっしゃいませの掛け声に迎えられた。
甘い香りで満ちた店内はなんとなく松川を落ち着かない気分にさせた。イートインスペースには子ども連れの家族がひと組と、大学生らしい男女のグループがひとつ。角の席で楽しそうに談笑している。あの人たちからすれば、自分たちは付き合っているように見えるのだろうか。なまえがまだ松川の袖を掴んだままだったから、ついこんな疑問がうまれてくる。

ガラスケースに張り付くように色とりどりのアイスクリームに目移りするなまえは、ああでもない、こうでもないと楽しそうに思案を繰り返す。欲張って3段がいいと言っていたのに、4つも食べたい味があるらしい。どうしても決められないから松川にその味を頼んでほしいと、きらきらした眼差しが物語っていた。しょうがなぇなあとわざとらしく肩を落として見せると、思った通り、なまえはわかりやすく喜んだ。押しつけられたストロベリー・チーズケーキ味は松川の好みからはかけ離れたもので、味の予想すらつかない。好みのコーヒー味やラムレーズンとの組み合わせが無難な気がしたが、それではなんとなく面白味に欠ける気がした。
アイスなんか季節外れだと散々なまえに説教したにもかかわらず、気がつけばなまえと同じ姿勢になっていた松川はあと2つ残った味の組み合わせを、ああでもない、こうでもないと迷いに迷って決めかねている。どうせ普段食べない味を食べるなら、いっそ、ちぐはぐなチョイスをしてみるのもいいかもしれない。眉尻を下げて品名を凝視していると、

「松川はひとつしか食べないんじゃなかったの」

と悪戯っぽくなまえが微笑む。そのつもりだったけど、気が変わった。
アイスクリームを選び終えたなまえの興味は最近よく見かけるタレントのポスターに移っていた。羽が生えたみたく軽々と、松川の元を離れようとシャツの裾から手を離す。その小さな手をまるごと包み込んだ。ガラスケースに淡く映るなまえの影がぴたりと動きをとめる。引っ張って自身に引き寄せると、あっけなく松川の隣に収まった。困惑して動かないなまえの指先に、松川は自分のをしっかりと絡めた。

「みょうじが連れてきたんだから、決めるの手伝って」

なるほど。欲を楽しむ、とはこういうことか。アイスクリームひとつ選ぶ行為にこんなにも迷っているのは生まれてはじめてかもしれない。彼女の言っていた意味が今なら何となく、松川にもわかる気がした。欲を捨てられないのなら、溶かして、のみ込んでしまえばいい。

頬を真っ赤に染めて、小さく頷いたなまえと一緒にガラスケースに目を泳がせる。相変わらずな彼女は、松川が3段にするならもう一つ自分の好きな味をのっけたいと言い出す始末である。本当に欲張りなひとだ。けれど松川の方がずっとずっと大きな欲望を抱いていると自覚してしまったのだから、今度は口に出さずに留めておくことにする。その代わり繋いだ手に力を込めた。アイスクリームなんかよりずっと、みょうじを食べてしまいたいと伝えたならば、彼女はまた、笑ってくれるだろうか。


Ash.